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★ACミランの新監督セードルフは有名日本食レストランのオーナー!【喜伝会おすすめニュース】

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★ACミランの新監督セードルフは有名日本食レストランのオーナー!【喜伝会おすすめニュース】









ミラン、セードルフ新監督下で初勝利 本田は途中交代

2014年01月20日 10:16 発信地:ミラノ/イタリア



【1月20日 AFP】13-14イタリア・セリエAは19日、第20節の試合が各地で行われ、ACミラン(AC Milan)は1-0でエラス・ベローナ(Hellas Verona)に勝利した。



 マリオ・バロテッリ(Mario Barwauh Balotelli)の終盤のPKに救われたミランは、クラレンス・セードルフ(Clarence Seedorf)新監督の就任初戦を白星で飾り、ようやく今季のリーグ戦6勝目を挙げた。



 前週、サッスオーロ(US Sassuolo)に3-4で敗れ、首位ユベントス(Juventus)と勝ち点30差がついて以降、セードルフ監督にはミランの救世主になり得る人物として期待が集まっている。



 バロテッリは試合後、「この勝利を新監督に捧げる。監督としての初陣は誰にとっても難しいものだからだ」とコメントした。



 ミランでの現役時代、10年にわたる在籍期間(2002年から2012年)で300試合以上に出場したセードルフ監督は、就任初戦で攻撃的な4-2-3-1の布陣を敷き、バロテッリの下にロビーニョ(Robinho)、カカ(Kaka)、本田圭祐(Keisuke Honda)を並べた。







「クラレンス・セードルフ」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95









【クラレンス・クライド・セードルフ(Clarence Clyde Seedorf、 1976年4月1日 - 】)は、スリナム、パラマリボ出身の元オランダ代表サッカー選手。サッカー指導者。現ACミラン監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー。





【人物】

スリナムの首都、パラマリボ出身。名門アヤックス・アムステルダムのアカデミー出身。同期には、パトリック・クライファートやレミー・ボンヤスキーらがいる。数多くの名選手を輩出してきたアヤックス・アカデミーにおいても、"最高傑作"と言われている。また、学業においても非常に優秀であった。 2011年4月28日、オランダ王家であるオラニエ・ナッサウ家から"ナイト"の勲章を与えられた。同章は「社会に対して特別な貢献をもたらした者」に与えられるとされており、長年のサッカー界への貢献と、児童たちへの教育支援基金活動などが評価された。





【経歴】



◆アヤックス

1992年11月29日(1992-93シーズン)、エールディヴィジ、FCフローニンゲン戦でプロデビュー。この時、わずか16歳と242日だった。ファン・デル・サール、ライツィハー、ブリント、ライカールト、ロナルド・デ・ブールとフランク・デ・ブールの兄弟、ダーヴィッツ、リトマネン、クライファート、フィニディ・ジョージ、オーフェルマルスなどアヤックス黄金時代の錚々たる顔ぶれがいた。このプロ最初のシーズンで、オランダ・カップを制覇する。



1994-95シーズンにレギュラーポジションを掴み、1995年5月24日、19歳にして1度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇。相手は、後に所属することとなるACミランだった。この試合でも先発出場を果たし、後半9分にヌワンコ・カヌと交代している。



◆サンプドリア

1995年夏に、イタリア・セリエAのサンプドリアへ移籍。移籍初年度(1995-96シーズン)、19歳ながら32試合に出場し3得点をあげている。潜在能力の高さを証明しつつも、ホームシック、チーム低迷などの理由から本来の力を発揮出来ないまま、1シーズンで移籍することとなる。



◆レアル・マドリード

1996-97シーズンからは、レアル・マドリードでプレー。リーグ戦全38試合に出場、6得点を記録しリ-グ優勝に貢献。



1997-98シーズン、21歳で2度目のチャンピオンズリーグ制覇。トヨタカップも制した。



その後もチームの中心として活躍するが、1999-2000シーズン、冬の移籍期間にて、チームメイトとの確執、チームの財政悪化などの理由からインテルへと移籍する(推定移籍金: 2300万ユーロ)。



◆インテル

インテル移籍後は、徐々に輝きを失っていく。控えの選手として苦しい時期を過ごし、代表でのポジションも絶対的なものではなくなってしまう。2001-02シーズン、後半戦に出場機会を得ると、目覚しい戦果を上げ復活をアピールした。



◆ACミラン

2002-03シーズン、フランチェスコ・ココとのトレードでライバルチームのACミランへ加入。このシーズン、自身3度目のチャンピオンズリーグ制覇(史上初の異なる3つのクラブでのチャンピオンズリーグ制覇)。



2006-07シーズン、4度目のチャンピオンズリーグ制覇。この大会では、後にバロンドールを受賞することになるカカの活躍が取り上げられたが、セードルフ自身も随所に高いパフォーマンスを披露している。準々決勝でのバイエルン・ミュンヘン戦では、相手ディフェンダーの股を抜いてのゴールと、フィリッポ・インザーギへ絶妙なヒールパスでアシスト。準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦でも、アレッサンドロ・ネスタのロングパスを頭で落とし、カカのゴールをアシスト。自身もネマニャ・ヴィディッチのプレスをものともせず、エドウィン・ファン・デル・サールの守るゴールにシュートを決め、優勝に貢献。UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーとUEFAクラブ最優秀MFを受賞。



2007-08シーズン、2007年12月にFIFAクラブワールドカップで出場。浦和戦では、カカのラストパスから決勝ゴールを決めた。また同月、チャンピオンズリーグにおいて通算100試合出場を達成。



2008-09シーズンでは、怪我でアンドレア・ピルロが離脱したときにはレジスタとして中盤の底でプレーし、代役を務めるなど高いユーティリティ性を示した。



2010-11シーズン、序盤、自らのミスから失点の足がかりとなったり、不用意なパスミスなどで、ポジションを一時ケヴィン=プリンス・ボアテングに奪われるなど限界がささやかれた。しかし、終盤になるにつれパフォーマンスが向上。ミラノダービーでの圧巻のプレー、サンプドリア戦では、無回転のフリーキックを直接決めるなど、結果的にミラン7シーズンぶりとなるスクデット獲得に貢献。



ミランにおいても、加入してからほぼ常にレギュラーポジションをつかみ、公式戦400試合以上に出場した。これはミランにおける、外国人選手の最多出場記録である[1]。



2012年6月、ACミラン退団を発表。



◆ボタフォゴFR

2012年7月、夫人の母国であるブラジルのボタフォゴFRに移籍決定。契約は2年間。



◆ACミラン監督に就任

2014年1月14日、ボタフォゴを退団し、ACミランの監督となることが決定。会見では「ミランの監督をやる以上は、タイトルを目指したい。」と述べた[2]。16日にACミランと契約し、正式に監督に就任した[3]。



◆オランダ代表

1994年12月14日、ルクセンブルク戦で代表デビュー。しかし、チームの内紛など問題の多いオランダ代表にあって本来の力を発揮する事が出来ず、1996年の欧州選手権では、自らのPK失敗によりチームも敗退。 1998年のワールドカップでは、4位という好成績に貢献しながらも大きなインパクトを残す事は出来なかった。 2002年のワールドカップでは、欧州予選敗退。 2006年のワールドカップでは、本大会出場に貢献したが、本大会のメンバーから外れた。



代表でプレーする際にはエゴイスティックなプレーが多く、マルコ・ファン・バステン元オランダ代表監督に失格の烙印を押された。しかし2006年11月15日のイングランドとの親善試合で久しぶりに代表に招集され、試合では背番号"10"を着けて先発出場。好調なプレーとキャプテンシーを見せ、再びファン・バステンの信頼を得た。





【エピソード】

弟のセドリック・セードルフ(英語版)は元サッカー選手、従兄弟のステファノ・セードルフ(英語版)もサッカー選手で、アヤックスやFCフローニンゲンに所属していた。現在は、アレクリンFCに所属。

ミラノで人気日本食レストラン(Finger's)を経営している。[4]

髪型が以前はドレッドロックスだったが、2004年頃にスキンヘッドにする。トヨタカップでPKを蹴りたがらない選手がいたと発言し、ミランの選手たちを怒らせたことへの反省の表れでもあった。

異なる3つのクラブ(アヤックス・アムステルダム、レアル・マドリード、ACミラン)でのUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げたのは歴代でセードルフただ一人だけである。

複数の国でプレーしてきたため、語学力に長けている。母国語のオランダ語の他、英語、イタリア語やスペイン語、更にはポルトガル語も自由に操ることができるマルチリンガルである。

妻はブラジル人であり、オフシーズンにはブラジルで過ごす。

長年lotto社と契約していたが、2007-2008シーズンのオフからadidas社のスパイクを履いていた。

北京オリンピックにオーバーエージ枠で参加する予定であったが、ファン・バステン監督の下での代表の要請を断ったことによって、協会の規定によって白紙になった。

ユーロ2008は辞退したが、同時期に日本で行われた中田英寿主催のチャリティーマッチに出場している。

2003年から2007年まで、副業として元ブラジル代表のロベルト・カルロスと共にバイクチームを運営していた。[5]

スリナムで生まれたセードルフは、スリナムの子どもたちへの支援・基金活動に積極的に取り組んでいることで知られ、私財を投じて学校や病院、スポーツ施設などを建設している[6]。自身4度目のUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げた時にもスリナムを訪問し、そのビッグイヤーを披露するとともに、チャリティー活動を行った[7]。

また「フットボーラーは模範になるべき」[8]とも語っている。

かつては、特に代表チームにおいて自身の望み通りのポジション・背番号を強く要求し、叶わなければ試合を欠場すると公然と言い放つなど、エゴの強さで知られていたが、こういった言動は加齢と共に落ち着いた。

オランダ代表、レアル・マドリード、インテル、ACミラン、ボタフォゴで背番号10をつけた。

2005年に自宅に強盗が入り、10万ユーロの被害を受けたが、幸いにも本人、家族ともに無事だった。

2006年にACミランでマヌエル・ルイ・コスタがチームを離れることになり、その背番号10番を自ら志願して受け継いだ。ファンの一部からは10番様と呼ばれることもあった。

アメリカ『ニューヨーク・タイムズ』にコラムを掲載している。「セードルフが答える」と題されたコラムで、おなじみの背番号10と同じ数の毎月10個の質問に答えている。その内容は、サッカー界だけにとどまるものではない。[9]





【獲得タイトル】



◆アヤックス

エールディヴィジ優勝 2回 (1993-94, 1994-95)

オランダ・カップ 1回 (1992-93)

オランダスーパーカップ 2回 (1993, 1994)

UEFAチャンピオンズリーグ 1回 (1994-95)



◆レアル・マドリード

リーガ・エスパニョーラ優勝 1回 (1996-97)

スペインスーパーカップ 1回 (1997)

UEFAチャンピオンズリーグ 1回 (1997-98)

トヨタカップ 1回 (1998)



◆ACミラン

セリエA 2回 (2003-04, 2010-11)

コッパ・イタリア 1回 (2002-03)

スーペルコッパ・イタリアーナ 2回 (2004, 2011)

UEFAチャンピオンズリーグ 2回 (2002-03, 2006-07)

UEFAスーパーカップ 2回 (2003, 2007)

FIFAクラブワールドカップ2007 優勝 (2007)



◆個人

オランダ年間若手最優秀選手賞 (1993, 1994)

UEFAクラブ最優秀MF: 2回 (1997-98, 2006-07)

UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー: 2回 (2002, 2007)

FIFA100 (2004)





【出典】

^ ACミラン公式サイト. “歴史的なマイルストーン”. 2011年4月18日閲覧。

^ セードルフ引退、ACミラン監督へ 元オランダ代表MF朝日新聞 2014年1月15日

^ ミラン、セードルフ新監督の就任を発表…契約期間は2年半 サッカーキング、2014年1月16日閲覧

^ セードルフ公式サイト. “Finger's Restaurant”. 2011年6月22日閲覧。

^ Valsir. “Valsir - Team Valsir Seedorf Racing”. 2011年6月22日閲覧。

^ スポルティーバ公式サイト. “【イタリア】Calcioの真実 vol.7「選手たちのサイドビジネス、その真実」”. 2010年6月22日閲覧。

^ livedoor スポーツ. “セードルフ、祖国スリナムでCLトロフィを披露(FOOTBALL WEEKLY)”. 2010年6月22日閲覧。

^ Goal.com. “セードルフ:「フットボーラーは模範になるべき」”. 2011年4月27日閲覧。

^ livedoor スポーツ. “セードルフが『ニューヨーク・タイムズ』でコラム執筆”. 2009年12月23日閲覧。





【外部リンク】



◆オフィシャルサイト

→ http://www.seedorf.com/



◆Finger's Restaurant公式

→ http://www.seedorf.com/EN/seedorf/off_the_field/finger%27s_restaurant.aspx









【喜伝会会長のコメント】



◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!



◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・クラレンス・クライド・セードルフがスリナム、パラマリボ出身の元オランダ代表サッカー選手で、ACミランの新監督で、現役時代のポジションはミッドフィールダーだったこと。

 ・・・クラレンス・クライド・セードルフがミラノで人気日本食レストラン(Finger's)を経営していること。

 ・・・異なる3つのクラブ(アヤックス・アムステルダム、レアル・マドリード、ACミラン)でのUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げたのは歴代でセードルフただ一人だけであること。

 ・・・クラレンス・クライド・セードルフは母国語のオランダ語の他、英語、イタリア語やスペイン語、更にはポルトガル語も自由に操ることができるマルチリンガルであること。

 ・・・クラレンス・クライド・セードルフの妻はブラジル人であり、オフシーズンにはブラジルで過ごすこと。

 ・・・クラレンス・クライド・セードルフはオランダ代表、レアル・マドリード、インテル、ACミラン、ボタフォゴで背番号10をつけたこと。



◆喜伝会会長のコメント

 ・・・ACミランの「10番様」が新監督になった。マルチリンガルで英語も話し、日本食レストランを経営している!ホンダにとって最高の監督だと思う!

 ・・・これからの「ACミラン戦」は見過ごせない!ACミランの試合スケジュールは以下の通り!インテル長友との戦いは5/4!





【ACミランの試合スケジュール】※現時点の上位チームは*



2014年1月26日(日)の試合=23:00 第21節 カリアリ-ACミラン



2014年2月2日(日)の試合=21:00 第22節 ACミラン-トリノ*



2014年2月9日(日)の試合=21:00 第23節 ナポリ*-ACミラン



2014年2月16日(日)の試合=21:00 第24節 ACミラン-ボローニャ



2014年2月23日(日)の試合=21:00 第25節 サンプドリア-ACミラン



2014年3月2日(日)の試合=21:00 第26節 ACミラン-ユヴェントス*



2014年3月9日(日)の試合=21:00 第27節 ウディネーゼ-ACミラン



2014年3月16日(日)の試合=21:00 第28節 ACミラン-パルマ*



2014年3月23日(日)の試合=21:00 第29節 ラツィオ*-ACミラン



2014年3月26日(水)の試合=21:00 第30節 フィオレンティーナ*-ACミラン



2014年3月30日(日)の試合=21:00 第31節 ACミラン-キエーヴォ



2014年4月6日(日)の試合=21:00 第32節 ジェノア*-ACミラン



2014年4月13日(日)の試合=21:00 第33節 ACミラン-カターニャ



2014年4月19日(土)の試合=21:00 第34節 ACミラン-リヴォルノ



2014年4月27日(日)の試合=21:00 第35節 ASローマ*-ACミラン



2014年5月4日(日)の試合=21:00 第36節 ACミラン-インテル*



2014年5月11日(日)の試合=21:00 第37節 アタランタ-ACミラン



2014年5月18日(日)の試合=21:00 第38節 ACミラン-サッスオロ













【おすすめリンク】



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★偉大な夢を可能にする可夢偉の実家は寿司屋で当初の夢はお笑い芸人【喜伝会おすすめニュース】

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★偉大な夢を可能にする可夢偉の実家は寿司屋で当初の夢はお笑い芸人【喜伝会おすすめニュース】





可夢偉がケータハムでF1復帰へ、ピックがドライバーから外れる

2014年01月21日 09:56 発信地:パリ/フランス



【1月21日 AFP】フォーミュラワン(F1、F1世界選手権)に参戦するケータハム(Caterham F1 Team)は20日、シャルル・ピック(Charles Pic)が今シーズンのドライバーから外れると発表した。



 仏テレビ局カナルプリュス(Canal Plus)が報じたところによると、ザウバー(Sauber)で活躍した小林可夢偉(Kamui Kobayashi)が、21日にもピックの代役として発表されるという。



 ピックは2012年にマルシャ(Marussia F1 Team)でF1デビューを飾り、昨年ケータハムに移籍。2シーズンで38戦に参戦し、ノーポイントに終わった。最高位は2012年の12位となっている。(c)AFP







「小林可夢偉」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%8F%AF%E5%A4%A2%E5%81%89









【小林 可夢偉(こばやし かむい, Kamui Kobayashi、1986年9月13日 – )】は、日本の兵庫県尼崎市出身で現在スクーデリア・フェラーリ所属のレーシングドライバー。





【初期の経歴】



◆デビュー - 2001年

9歳でカートを始める。少年の頃より憧れのドライバーはアイルトン・セナであると発言している。1996年にカートレースにデビュー、実績を積み重ね2000年には全日本ジュニアカート選手権のシリーズチャンピオンとなる。2001年は全日本カート選手権にステップアップし、ICAクラスに参戦してシリーズチャンピオンを獲得、またフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)を受講しスカラシップを得た。



◆2002年 - 2003年

続いて4輪レースに出場することになるが、当時15歳であったためその前に日本自動車連盟(JAF)が限定A級ライセンス[1]を発行するのをしばらく待たねばならなかった。限定A級ライセンス取得後の2002年度、エッソ・フォーミュラ・トヨタ最終戦にて4輪レースデビューを飾る。2003年は本格的に同シリーズに参戦しランキング2位。



◆2004年 - 2005年

クラーク記念国際高等学校卒業後の2004年にはトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)の支援下、フォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズに参戦しランキング7位。



2005年度はイタリアシリーズに加えユーロシリーズも戦い、両シリーズともチャンピオンに輝いた。なお小林はヨーロッパのフォーミュラ・ルノー選手権においてシリーズチャンピオンに輝いた最初の日本人であり、ヨーロッパのフォーミュラカー選手権において日本人ドライバーがタイトルを獲得したのは2001年度に金石年弘・佐藤琢磨・福田良がそれぞれドイツ・イギリス・フランスのF3選手権でシリーズチャンピオンとなって以来のことであった。



◆2006年 - 2007年

2006年はASM Formule 3(現在のARTグランプリのF3部門[2])からダラーラF305・メルセデスでF3・ユーロシリーズを戦い、ランキング8位ながらルーキーカップを獲得した。またF3マカオGPにも出場しポールポジションを獲得する健闘を見せるが決勝は19位で終えた。この時のチームメイトはセバスチャン・ベッテル、このシーズンのチャンピオンを獲得したポール・ディ・レスタ、そしてギド・ヴァン・デル・ガルデであった。



2007年も引き続き同チームのF3ユーロシリーズに参戦。同年6月30日、フランスのマニクール・サーキットで開催されたシリーズ第4戦の第1ラウンドでポールポジションを獲得しそのままF3初勝利を果たした。チームメイトはこの年のF3チャンピオンを獲得し、後にルノーからF1デビューしたロマン・グロージャン、ウィリアムズからデビューしたニコ・ヒュルケンベルグがいる。シリーズ4位。同年11月よりフォーミュラ1チームであるトヨタF1からフランク・モンタニーに代わり、サードドライバーとして起用されることが発表された。



◆2008年 - 2009年

2008年はGP2にアジアシリーズも含め参戦。3月23日、GP2アジアシリーズのマレーシアGPにて日本人初優勝。さらに4月27日、ヨーロッパに戻って行われたGP2本戦の第1戦スペイン・レース2でも日本人初優勝という快挙を遂げた。



2008年-2009年シーズンとなったGP2アジアシリーズに、トヨタからのサポートを受けて参戦。2008年12月6日、ドバイGPにて08/09シーズンで初優勝。さらに2009年1月24日、バーレーンGPのレース1で優勝し、日本人初の連勝。2位に13ポイント差をつけランキング首位で挑んだ3月25日の最終戦、バーレーンの第1レースで4位入賞したことにより、第2レースを待たずしてアジアシリーズチャンピオンを獲得した。F1直下のカテゴリーで日本人が王座を獲得したのは初めてである。





【F1での経歴】



◆2009年

2009年10月2日に開幕したF1第15戦日本グランプリで、トヨタF1チームのレギュラードライバーであるティモ・グロックが体調不良により金曜フリー走行を急遽欠場したため、リザーブドライバーであった小林がその代役として出走した。翌日はグロックが復帰したものの、そのグロックは公式予選でクラッシュして脊椎を負傷したため、次戦以降を欠場することになった[3]。これにより、小林は10月18日の第16戦ブラジルグランプリでF1デビュー、日本人としては18人目のF1ドライバーとなった。



そのブラジルグランプリでは、予選11位を記録。決勝ではポイント首位のジェンソン・バトンを18周に渡り抑えて、一時3位までポジションを上げたが、惜しくも入賞に一歩とどかず9位完走だった[4]。



次戦のアブダビGPも参戦することとなり、前戦同様バトンをオーバーテイクして、一時3位を走行していた。予選12位から1ストップ作戦を成功させ、チームメイトのヤルノ・トゥルーリを上回る6位入賞を果たした。1ストップ勢での上位浮上は小林ひとりであり、2007年の佐藤琢磨以来、2人目となる完全日本製パッケージ[5]でポイント獲得をした。



この2戦の活躍で、来シーズンのトヨタF1チームの正ドライバーの座を確かなものとした。しかし、そのアブダビGPからわずか3日後の11月4日、トヨタF1チームがF1から完全撤退することを発表し、2010年以降は他チームにシートを求めることとなった。



◆2010年

2009年12月17日、ザウバーとのレギュラードライバー契約を発表し、撤退したトヨタを離れ2010年シーズンから新天地でのフル参戦が実現した。チームメイトはベテランのペドロ・デ・ラ・ロサ。第15戦シンガポールGPからデラ・ロサに替わりニック・ハイドフェルドがチームメイトになった。



序盤戦はスタート直後の接触事故やマシントラブルにより結果を残せなかったが、トルコGPでは10位入賞し、チームのシーズン初ポイントを獲得した。中盤戦以降はマシンの改善もあり、コンスタントに入賞圏内を争うようになった。



ヨーロッパGPでは予選18位からのスタートであったが、セーフティーカー出動の混乱を巧みに乗り切り、レース終盤の53周目までタイヤを交換しないという策に出る。その53周までのレースの大半を3位で走行し、レギュレーション上のタイヤ交換義務でソフトタイヤに履き替え9位でレースに戻り、新しいタイヤのグリップ力を活かし残り2周でフェラーリのフェルナンド・アロンソを、ファイナルラップの最終コーナーでトロ・ロッソのセバスチャン・ブエミをオーバーテイクし7位入賞を果たして、その印象的な走りは評価された。終始4位に抑えこまれていたマクラーレンのジェンソン・バトンも、インタビューで小林の走りについて"Brilliant!"(素晴らしい!)と称賛した。



続くイギリスGPでも6位入賞。ハンガリーGP予選ではピットレーンの赤信号無視でペナルティを受け23番手に降格。決勝ではスタートで順位を上げ、セーフティーカー出動も味方して9位入賞を果たした。



母国日本GPでは予選14位から、他のドライバーがソフトタイヤでスタートする中、ハードタイヤで走り出した。ハイメ・アルグエルスアリを14周目、エイドリアン・スーティルを18周目にヘアピンで抜き、全53周レースの38周目にピットイン。ソフトタイヤに履き替えると、アルグエルスアリをアウト側から45周目、ルーベンス・バリチェロを48周目、ハイドフェルドを49周目に同じヘアピンで抜き、計5回のオーバーテイクをした[6]。そして2度目のアルグエルスアリをオーバーテイクする際に接触したことでマシン左側のディフレクター、サイドポンツーンの損傷に加えてフロントウィングの一部まで欠損している状況にも拘わらず7位入賞を果たし、観客を熱狂させた。なお、小林自身は何回オーバーテイクを行ったか記憶していないと語っている[7]。続く韓国GPでは8位、ブラジルGPでも10位と3戦連続入賞を果たした。



この年は決して競争力の高いマシンではなかったものの、ルーキードライバーとしては最も高いポイントである32ポイントを獲得しランキング12位。又、チームメイトと比較してもデ・ラ・ロサに7勝2敗5分、ハイドフェルドに3勝1敗1分している事になりベテランドライバー相手にも遜色ない結果を残した。



◆2011年

2010年9月7日、ザウバーは小林をエースドライバーとして残留させることを発表し、2011年も引き続きザウバーから出走する[8]。チームメイトには、新人のメキシコ人ドライバーセルジオ・ペレスが起用されている。



開幕戦オーストラリアGPでは入賞圏内である8位でゴールしたが、レース後の検査でリアウイングに違反があったとして失格処分となった。第2戦マレーシアGPでは、マーク・ウェバーやミハエル・シューマッハらとの接戦を繰り広げ見事7位入賞。前戦の雪辱を晴らし、第3戦中国GP、第4戦トルコGP、第5戦スペインGPまで3戦連続で10位入賞を記録し、日本人F1ドライバーの中で最もポイント獲得している佐藤琢磨の記録「44ポイント」と並んだ。又、同じく佐藤が記録した日本人による連続入賞記録(2004年イタリアグランプリから2004年ブラジルグランプリまで)である「4戦」も並んだ。翌第6戦モナコGPでは同僚のセルジオ・ペレスがシケインで大クラッシュを演じ同グランプリの決勝レースを欠場。 小林は単独で決勝レースに臨むこととなったが結果は自己最高位となる5位入賞を果たし、中嶋一貴以来日本人ドライバー2人目のモナコグランプリでのポイント獲得、モナコグランプリにおける日本人歴代最高位を更新した。同時に日本人獲得ポイント記録と、日本人連続入賞記録を更新した。



続くカナダGPでは荒れた天候のレースで一時2位を走るも、7位でフィニッシュ。一部の日本のマスコミ(特にフジテレビ)はこの活躍と有力チームのシート事情を絡め、2012年シーズンに有力チームに移籍する可能性を盛んに報じた。小林自身も移籍の可能性とペーター・ザウバーへの恩義の間で揺れる心境を示唆していた[9]。しかし7月28日にザウバーが小林とペレスの2012年残留を発表している[10]。



◆2012年

開幕戦オーストラリアGPでは、スタート時の接触によりリアウィングの翼端板が破損、DRSの使用に不安が生じた。そんな中で上位陣のクラッシュもあり6位入賞を果たした。第3戦中国GPではフリー走行から安定した走りを見せ、最終的に自己最高となる予選4位を記録する。予選2位のルイス・ハミルトンのペナルティにより決勝は3番手からのスタートとなったが、スタート時にトラブルが発生し順位を落とす。しかし10位でフィニッシュし、日本人としては1989年最終戦オーストラリアGPに中嶋悟が達成して以来23年ぶり、ザウバーチーム(BMW時代を除く。)としては初めてのファステストラップを記録した。



第5戦スペインGPでも予選Q3進出したものの、ハイドロ系トラブルによって10位(ハミルトンが予選失格したため、9番手からのスタート)だったが、決勝ではジェンソン・バトンやニコ・ロズベルグをオーバーテイクし、自己最高タイの5位入賞を果たした[11]。



第6戦モナコGP予選ではQ2で敗退となり12番手となったが9番手スタートのマルドナードがフリー走行中にペレスと接触して10グリッド降格のペナルティを受け11番手スタートとなった。 決勝では、スタート直後に第1コーナーでグロージャンがシューマッハとの接触をきっかけにスピンし、後続を巻き込む多重クラッシュとなり、そのクラッシュに巻き込まれリタイアを 喫した。



第7戦カナダGP予選はQ2敗退となり11番手となった。決勝ではシューマッハのリタイアなどもあり予選グリッドから2つポジションを上げ9番手で入賞を果たした。



第8戦ヨーロッパGP予選はQ3進出を果たし、7番手スタートを手にした。決勝では7番手からスタートし、2周目には4番手までポジションを上げたが、ピットストップに時間がかかり順位を落とす。その後ブルーノ・セナと接触。この接触ではセナにペナルティが科される。その後フェリペ・マッサと接触してリタイア。マッサとの接触には可夢偉に非があるとして次戦のイギリスグランプリで5グリッド降格のペナルティが科された。



第9戦イギリスGP予選では雨のコンディションの中行われ大波乱の予選となり1時間30分の赤旗中断となった。その中、マクラーレンのジェンソン・バトンがQ1敗退を喫し、ロータスのグロージャンもQ3進出を果たすがスピンしQ3を走ることができなかった。その中で可夢偉はQ2で敗退となり12番手となるが前戦のヨーロッパグランプリによる5グリッド降格のペナルティを受け17番手スタートとなる。 決勝では1周目に大きく順位を上げその後も順調に順位を上げていくが37周目にピットストップをするときにタイヤがロックし指定の位置に止まることができずメカニック3人と接触。この事故によりピットストップに時間がかかりコースに戻ると12番手、そこからポジションを1つ上げ11番手でフィニッシュしポイントを手にすることはできなかった。 レース後メカニックとの接触について審議され2万5000ユーロ(約240万円)の罰金処分を科された。



第10戦ドイツGP予選は雨の降る中行われ、Q2では雨量が激しくなり各車がウェットタイヤに続々と変える中はインターミディエイトタイヤで走る戦略が失敗し予選13番手となるが[12]、決勝では天候に恵まれ戦略面でも巧く事が進み、5位でフィニッシュした。その後、2位のセバスチャン・ベッテルのコース外を使ったオーバーテイクが審議対象となり、その結果決勝タイムから20秒加算ペナルティとなった為、最終的には自己最高の4位入賞を果たした。



第11戦ハンガリーGPはフリー走行からマシンバランスに悩み、予選Q1は通過するもQ2で敗退(15位)。決勝では早めにミディアムタイヤに履き替え変則2ピットストップ作戦を決行するが、油圧系のトラブルでリタイアしたが、18位完走扱いでレースを終えた。



第12戦ベルギーGPはウェットコンディションとなった金曜日フリー走行1回目でトップタイム、2回目では7番手を記録。ドライとなった翌日3回目でも4番手タイムを出し、午後の予選ではポールポジションのバトン(マクラーレン)に次ぐ2番手タイムで自己ベストをマークした。また2004年第7戦ヨーロッパGPの佐藤琢磨以来、8年ぶりの日本人予選フロントローという快挙も成し遂げた[13][14]。ザウバーチーム(BMW時代を除く。)としても1999年第7戦フランスグランプリ以来のフロントローを獲得した。だが決勝ではスタートで失敗し、直後にロマン・グロージャンによって引き起こされた多重クラッシュに巻き込まれマシンにダメージを負い、完走はしたものの13位に終わった。



第13戦イタリアGPではチームメイトが2位を獲得したのに対して9位に終わり、第14戦シンガポールGPでも13位でポイント圏外で不振が続いた。



しかし第15戦日本GPにおいて、予選4位となり、3位だったジェンソン・バトンがシンガポールGP後のギアボックス交換によりグリッド降格処分となったため3番グリッドからのスタートとなった。スタート直後にマーク・ウェバーをかわし2位に浮上するも、14周終了後の1度目のピットインの後、ダニエル・リカルドをオーバーテイクするのに17周目まで手間取ったこともあり、17周目にピットインしたフェリペ・マッサがピットイン後小林の前に入り再度3位となる。その後は終始ジェンソン・バトンに猛追されるもそのまま3位でゴール、日本人としては2004年アメリカGPでの佐藤琢磨以来8年ぶり、鈴鹿では1990年鈴木亜久里以来22年ぶりとなる、日本人3人目のF1GP表彰台登壇者となった[15][16]。



2012年はチームメイトを6ポイント下回ったものの昨年の倍の60ポイントを獲得し、日本GPの表彰台を含む9回の入賞(チームメイトは7回)や、自身初のファステストラップとフロントローなどを記録した。しかし、チームとの契約延長には至らず、最終戦ブラジルGP前に2013年のザウバー離脱が発表された。





【GTレース】

小林は2014年にトップチームへ移籍するため、2013年は「しっかりと勝えるチーム」のシート獲得を目指して交渉を行った[17]。候補はロータスかフォース・インディアと考えられた[17]。11月23日にはファンからの「資金協力をしたい」という声に応える形で、支援金を募る「KAMUI SUPPORT」を公式サイトに開設。12月18日までに1億8400万相当が集まり、日本企業のスポンサーを含めて800万ユーロ(約8.8億円)強の資金を確保した[18]。



しかし、12月18日にロータスがグロージャン残留を発表すると、小林は「戦えるチームへの移籍が不可能になった」として、支援金の受付終了を発表した[18]。2013年についてはF1以外のカテゴリは考えていないと述べ、支援金は2014年のシート獲得活動に充てるとした[18]。



最終的に2013年はF1から離れて、アジア人として初めてスクーデリア・フェラーリとドライバー契約(3月11日契約発表)を結び、GTレースにおいてフェラーリのセミワークス的存在であるイタリアのAFコルセチームより、FIA 世界耐久選手権に参戦することになった[19]。チームメイトは、ジャンカルロ・フィジケラ、ジャンマリア・ブルーニ、トニ・バイランダー。





【評価】

日本企業の支援を受けてF1に昇格したという点では、F1ブーム期以降の日本人ドライバーの系譜に連なる。しかし、トヨタのF1撤退で後ろ盾を失いながらデビュー2戦のパフォーマンスを評価され、2010年のレギュラーシートを確保するに至った。起用を決めたザウバーチーム代表のペーター・ザウバーは「彼は資金を持ち込まずにF1チームに加わった最初の日本人ドライバーだ」「彼はドライブ能力のおかげでF1にいる」と評価した[20]。 しかし結局後に2013年の参戦にあたりチームは不明だが彼は10億円の資金持ち込みを要求された[21]。



F1ジャーナリストの今宮純は「小林はマクラーレンの候補リストに日本人として初めて名を連ねていた[22]」と話している。元F1ドライバーの片山右京は「僕らの夢が動き出そうとしている」とコメントを残した。



マシンの空力的性質上オーバーテイクが難しいといわれるF1において、積極的に追い抜きを仕掛ける姿勢は評価されている。2011年シーズンのオーバーテイク回数は99回で、これはミハエル・シューマッハ(116回)、セバスチャン・ブエミ(114回)についで3番目に多い。一方で、接触する場面もあることから海外を中心に「危険な走り」であると指摘を受けている。本人も接触の多さやアグレッシブ過ぎる部分については認めつつも、他車を巻き込んでのリタイヤは無いので危険ではない。安全だと主張している[23]。



タイヤマネジメントに定評があり、タイヤ交換回数を減らしたり、他のドライバーと異なるタイヤを選択することで順位を大きく上げるレースが多い。



F1デビュー戦の2009年ブラジルGPでは、後方から迫るバトンに対して蛇行で牽制するようなブロックをみせた(通常は一つのコーナーに対してワンアプローチしか認められない)。チャンピオン争いをしていたバトンは可夢偉の走行に過剰に反応し、無線で自分のチームに抗議するよう求めたが「ルーキードライバーの(少々過剰な)行為」にクールになるように窘められている。また、ピットアウト直後に中嶋一貴をブロックして接触し、中嶋はクラッシュした。レース後には全世界のファンの投票で選ばれる「マン・オブ・ザ・レース」に選出された。

2009年アブダビGPでは再びバトンとバトルを展開し、デビュー2戦連続で「マン・オブ・ザ・レース」に選出。バトンを追い抜いたシーンが同サイトの「ベストオーバーテイク」のファン投票で1位を獲得した。

2010年日本GPではヘアピンへのブレーキングで5度のオーバーテイクを成功させ、ライバルや海外メディアに賞賛され、F1公式サイトのコメンタリでは「overtaking king Kobayashi」と絶賛された。レース後、イギリスのテレビ局BBCは小林に対して独占インタビューを行い、コメンテイターのエディ・ジョーダン、マーティン・ブランドルより絶賛を受けた。デビッド・クルサードはコラムにおいて「日曜に彼が見せたオーバーテイクは驚異的だった。アグレッシブでありながらコントロールされており、非常に素晴らしかった」と述べた[24]。また鈴鹿サーキットでは、2011年の日本GPにおいてヘアピンの観客席を増設し「小林可夢偉応援席」として販売したが[25]、通常発売期間を待たずして先行予約期間ですぐに完売してしまった[26]。

この2010年日本GPでのオーバーテイク時にセバスチャン・ブエミと接触し、左サイドポンツーンのエアロパーツを破損して無くすことになるが、その後自身のベストラップを刻み、テレビ解説をしていた片山右京に「彼は破損したマシンの方が速いんですね」と苦笑いをされてしまう。[27]

2010年、同じF1ルーキーのヴィタリー・ペトロフやニコ・ヒュルケンベルグ、GP2のジュール・ビアンキやサム・バード、世界ラリー選手権(WRC)に転向したキミ・ライコネンらを抑えて、「AUTOSPORT Awards」のルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。[28]





【エピソード】



◆名前・ニックネーム

可夢偉(かむい)という名前はアイヌの民族信仰で神とされる「カムイ」と、「偉大な夢を可能にする[29]」という言葉の漢字3文字から命名された。

2012年のF1日本GP翌日に催されたファンミーティングでは「自身の名前が漫画『カムイ伝』から採られた」「漢字は全くの当て字」と語った。小林の兄に「北斗」と命名したところ、後に『北斗の拳』がブームになり、「マンガのタイトルからとれば将来いけるんちゃうん?」という父の考えから、カムイ伝から名前をもらった。

海外メディアではカウボーイと小林を組み合わせてCowboyashi (カウボーヤシ)というニックネームを付けられている[30]。



◆家族・出身地

実家は寿司屋を経営している。16歳からは家業の手伝いで寿司を握っていたことから、メディアでは「可夢偉はシートを失ったら実家の板前に転職する」とジョークを言われた。2009年のトヨタF1撤退決定の直後は「レースが続けられないなら寿司屋の修行をする」[31]と語り、2010年の参戦決定後も「ザウバーと契約していなかったら今頃寿司を握っていたでしょう」と冗談を言った。実際のところ本人はエビやカニのアレルギー持ちで「触ることすらできない」ため、板前には「なりたくてもなれない」という[32]。ザウバーの公式HPでは「好物は和食、ただし生魚を除く」と記載されている。

父親は芸術大学を卒業して寿司屋の板前をやっており、職業は「自称陸サーファー」。小林曰く「変な人」。また、株式会社「Dream win」の命名者である。

実家に近い三和本通商店街が、2011年3月より小林の応援旗や垂れ幕を掲げるとともに「カムイロード」の愛称を付け応援するようになった[33]。2012年日本GPでは地元商店街が中心となって、バス11台、総勢520人の大応援団[34]を結成し、2コーナースタンド可夢偉応援席(C席)最上段から応援した。3位初表彰台を獲得した小林は、特製の赤い応援旗の波と大歓声で迎えられた。



◆少年期・修行時代

子供の頃は最初からレーサーを志していたわけではなく、当初の夢はお笑い芸人になることだった。地元尼崎市出身のお笑いコンビ・ダウンタウンを尊敬しており、2009年にフジテレビ系『すぽると!』に出演した際、自らの夢を「テレビで浜田さんと共演する」と発言し、後日その浜田が司会を務めるフジテレビ系『ジャンクSPORTS』で実現した。

少年時代に参戦したカート競技で父親自らが小林の車両のメカニックとして携わっていたが、実は両親はレースに全く関心がなかったという。また、自身で乗用車を2度ほど購入していたが、その両方の車を父親に売却された[35]。

1998年に放送されたTBSの30時間特別番組『テレビのちから』のコーナー「スーパーキッズ21世紀夢チャレンジ」にて、当時小学6年生だった小林は「天才カート少年」として紹介され、定岡正二や元F1ドライバー鈴木亜久里とカート対決を行った。鈴木とのレースでは勝利しながらもレース後目に涙を浮かべ、「悔しかった。遊ばれとった」と発言した。F1ドライバーになって以降も「この悔しかった心境を鮮明に覚えている」と発言している。

17歳の頃に、尼崎市の広報誌のインタビューを受けた際、免許を取得した後に乗りたい車はという問いに対して「速く走る必要も無いのでどんな車でも良いが、強いて言えば、いつも窮屈な車にばかり乗っているので、乗っていて楽な車が良い。」と語っていた。

TDP監督として小林や中嶋一貴を指導した関谷正徳は、「可夢偉はやんちゃで、一貴は優等生タイプ[36]」と評している。小林はヨーロッパに渡る直前、TDP関係者の知り合いの寺に送られ、2泊3日で修行させられた[37](「車に乗せられて空港に行くのかと思ったのに、着いたら寺だった」)。寺の後は横田基地に連れて行かれ、英語習得のためアメリカ人家庭でホームステイした[37]。



◆プライベート

2010年の日本GP後にスポーツ紙や週刊誌においてタレントのあびる優との交際が報道された。この件について、あびるの所属事務所であるホリプロは「仲の良い友達の一人です」とコメントしていた[38]。翌年の1月29日に小林との交際が順調であるかという質問を受けたあびるは「はい。(結婚は)するなら若いうちにしておきたい」と答えた[39]。2011年シーズンは度々サーキットへ応援に訪れており、海外のF1メディアにはすでに「あびる優は小林のガールフレンド」と認知されている[40]。

2011年にはスポーツ紙や週刊誌において女優の黒木メイサとの温泉宿泊旅行が報道された。

吉本大樹は親友であり「ずっと昔から、酒の飲み方から何から何まで本当に御世話になった[41]」という間柄。F1日本GP(小林)やWTCC鈴鹿(吉本)では互いの応援団長を買って出ている。

セバスチャン・ベッテルとはF3時代にチームメイトだったこともあり仲が良い。2012年日本GPの表彰台インタビューでは、優勝したベッテルのことを「べっちゃん」と呼んだ。また、GP2で共に戦ったヴィタリー・ペトロフとも仲が良い。



◆メディア出演

初めて出演したラジオ番組は、2010年8月17日にUstreamで放送されたインターネットラジオ『タイムマシン部』であった。収録内容はUstreamにアーカイブされており視聴可能[1]。

スポーツニュース『すぽると!』に出演した際、ベッテルのようにマシンに名前を付けるとしたら?と尋ねられると、隣に座っていた本田朋子アナウンサーの名前を取って「朋子」と答えた。

2012年9月にはバラエティの『世界の果てまでイッテQ!』特番に出演し、お笑いタレントの宮川大輔とともにタイの木の車祭りに参加した[42]。



◆その他

グッドスマイルカンパニーが2010年8月よりパーソナルスポンサーとなっており、「ねんどろいど」と「figma」で小林をフィギュア化し、それぞれ2012年3月に発売した。ねんどろいど版はチャリティー企画「Cheerful JAPAN!」において“がんばれ日本Ver.”も作成・販売された。小林は2011年にグッドスマイルレーシングのスペシャルサポーターとなった。

ザウバーのスポンサーのひとつであるマッドクロックは、2011年より販売開始した日本におけるイメージキャラクターとして、小林とプロボクサーの粉川拓也を起用した。

2011年11月には、ヘルメットのデザインをリンキン・パークのジョー・ハーンに手掛けてもらった[43]。





【レース戦績】

1996年

SL宝塚シリーズカデットクラス(3位)

1997年

TOYOTA SL全国大会カデットクラス(優勝)

1998年

JAFCUP西地域シリーズカデットクラス(優勝)

1999年

全日本ジュニアカート選手権(ランキング5位)

TOYOTA SL全国大会SストックDクラス(優勝)

2000年

全日本ジュニアカート選手権(シリーズチャンピオン・優勝3回)

鈴鹿カート選手権RSOクラス(シリーズチャンピオン)

2001年

全日本カート選手権ICAクラス(シリーズチャンピオン・優勝3回)

アジアパシフィック選手権ICAクラス(2位)

フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール(FTRS)受講・スカラシップ獲得

2002年

ヨーロッパカート選手権FAクラス(ランキング14位)

エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ(決勝DNF)

2003年

エッソ・フォーミュラ・トヨタシリーズ(#7 ウルトラフロースカラシップFT/FT30)(ランキング2位・優勝2回)

マカオGPフォーミュラ・ルノー参戦

2004年

フォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズ(ランキング7位・優勝2回)

マカオGPフォーミュラ・ルノー参戦(18位)

2005年

フォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズ(シリーズチャンピオン・優勝6回)

フォーミュラ・ルノー2.0ユーロシリーズ(シリーズチャンピオン・優勝6回)

2006年

F3ユーロシリーズ(ASM Formula3 #17 Dallara F305 Mercedes)(ランキング8位・最高位2位・Rookie Cup2006を獲得)

F3Ultimate Masters(ASM Formula3 #17 Dallara F305 Mercedes)(決勝11位)

F3マカオGP(ASM Formula3 #6 Dallara Mercedes-HWA)(予選PP・決勝19位)

2007年

F3ユーロシリーズ(ASM Formula3 #2 Dallara F305 Mercedes)(ランキング4位・優勝1回)

F3マカオGP(ASM Formula3 #9 Dallara Mercedes-HWA)(予選7位・決勝13位)

2008年

GP2アジアシリーズ(DAMS #10)(ランキング6位・優勝2回)

GP2メインシリーズ(DAMS #10)(ランキング16位・優勝1回)

2009年

GP2アジアシリーズ(DAMS #8)(シリーズチャンピオン・優勝2回)

GP2メインシリーズ(DAMS #17)(ランキング16位・最高位3位)

F1世界選手権(Panasonic Toyota Racing #10)(ランキング18位・入賞1回)

2010年

F1世界選手権(BMW Sauber Ferrari #23)(ランキング12位・入賞8回)

2011年

F1世界選手権(Sauber Ferrari #16)(ランキング12位・入賞9回)

2012年

F1世界選手権(Sauber Ferrari #14)(ランキング12位・入賞9回)





【脚注】

^ 普通自動車運転免許を取得できないドライバーは、この特殊なライセンスを取得しなければ4輪レースに出場できない。16~17歳が対象で、日本自動車連盟が発行。取得すると国内の一部レースに限り出場を認められる。

^ “Champions ASM renamed ART”. AUTOSPORT.com. (2007年11月28日). http://www.autosport.com/subs/login.php?r=http://www.autosport.com/news/report.php/id/64136&type=news&id=64136 2010年10月11日閲覧。

^ ティモ・グロック、F1ブラジルGPを欠場 F1-Gate.com 2009年10月11日

^ 9位完走のヘイキ・コバライネンがピットロードで火災を起こしてしまい、25秒加算ペナルティを受けたため、10位から9位に繰り上がった。

^ 日本のコンストラクター・日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ。

^ 正確には45周目にスーティルがエンジンブローによってスローダウンしてしまった為、小林はスーティルを130Rの後コース上でかわしている。よってこれまで含めると、実質6回のオーバーテイクとなる。

^ “小林可夢偉 「何度オーバーテイクしたか覚えていない」”. F1 Gate.com. (2010年10月11日). http://f1-gate.com/kamui/f1_9516.html 2010年10月11日閲覧。

^ “小林可夢偉、2011年もザウバー残留が決定”. F1 gate.com. (2010年9月7日). http://f1-gate.com/kamui/f1_9035.html 2010年9月7日閲覧。

^ “小林可夢偉、F1トップチーム移籍を視野に ザウバーとの契約更新報道を否定”. F1トップニュース. (2011年7月10日). http://www.topnews.jp/2011/07/10/news/f1/drivers/kamui-kobayashi/39568.html 2011年8月3日閲覧。

^ “小林可夢偉、2012年のザウバー残留が正式発表”. F1トップニュース. (2011年7月28日). http://www.topnews.jp/2011/07/28/news/f1/drivers/kamui-kobayashi/40465.html 2011年8月3日閲覧。

^ “ザウバー:小林可夢偉が自己ベストタイの5位入賞 (F1スペインGP)”. F1 Gate.com. (2012年5月14日). http://f1-gate.com/sauber/f1_15281.html 2012年5月14日閲覧。

^ ペレスが5グリッド降格したので、スターティンググリッドでは12番手。

^ “小林可夢偉、スパでフロントロウ2番手獲得!”. オートスポーツweb (イデア). (2012年9月1日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=43097 2012年9月3日閲覧。

^ “可夢偉、日本人最高タイの2番手、バトンPP ベルギーGP予選”. 産経新聞. (2012年9月1日). http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120901/oth12090122400018-n1.htm 2012年9月3日閲覧。

^ 【F1】可夢偉が3位表彰台、フェテルが優勝 日本GP決勝 msn産経ニュース 2012年10月7日付

^ 可夢偉、ついに表彰台へ! 2012年F1日本GP決勝レース・リポート! Autoblog 2012年10月8日付記事

^ a b "米家峰起 【F1】可夢偉が語るシート獲得活動の現状。「道筋が見えている」". web Sportiva.(2012年12月12日)2012年12月19日閲覧。

^ a b c KAMUI SUPPORT 小林可夢偉F1活動資金 2012年12月18日。

^ "From the Land of the Rising Sun". Ferrari S.p.A.(2013年3月11日)2013年3月12日閲覧。

^ “ザウバー 「小林可夢偉は実力でF1にいる」”. F1-Gate.com. (2010年10月8日). http://f1-gate.com/sauber/f1_9428.html 2010年11月12日閲覧。

^ 【STINGER】小林可夢偉 会見【インドGP(木)】(メディア囲み会見) F1 NEWS|ボイスレコーダー||STINGER - 独自の視点でF1ニュースを発信

^ トヨタF1最後の日に立会い、日本人ドライバーの今後を思った。 F1 WORLD.JP 2009年11月24日

^ “小林可夢偉 「自分が危険なドライバーだとは思っていません」”. F1-Gate.com. (2010年11月5日). http://f1-gate.com/kamui/f1_9823.html 2010年11月12日閲覧。

^ “将来ハミルトンと渡り合う日も? DCが可夢偉を絶賛”. オートスポーツweb. (2010年10月13日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=29832 2011年1月11日閲覧。

^ “2011 FIA F1世界選手権シリーズ第16戦 日本グランプリレース 開催概要のご案内”. モビリティランド. (2011年1月10日). http://www.mobilityland.co.jp/pressroom/suzuka/2011/01/2011_0111f1.pdf 2011年5月12日閲覧。

^ “小林可夢偉応援席、ヘアピン(I席)が完売”. F1 Gate.com. (2011年3月8日). http://f1-gate.com/kamui/f1_11015.html 2011年5月12日閲覧。

^ 会場実況であるPit-FMでは「あのパーツ、(空力的に)意味無いんじゃないか」とまで言われた

^ 小林可夢偉、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞 2010年12月7日 F1-Gate.com

^ ちぃ (2009年10月14日). “小林可夢偉選手ってどんな人?”. トヨタモータースポーツ インサイドブログ. 2010年10月4日閲覧。

^ “F1 2010: Sauber team guide”. ガーディアン. (2010年3月8日). http://www.guardian.co.uk/sport/2010/mar/08/f1-2010-sauber-team-guide 2012年6月27日閲覧。

^ 小林可夢偉(トヨタ)、「シートなければ寿司屋継ぐ」 - FMotorsports・2009年11月4日

^ 『GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)2010年1月号・連載「突撃!ピットレポーター川井ちゃん」

^ 世界最速へ尼崎の夢 F1小林さん応援 - asahi.com関西 2011年6月30日

^ 2012年10月8日放送 Pit-FM 2012F1日本グランプリ決勝実況より

^ “母国で長旅の羽を休める可夢偉”. ESPN F1. (2010年10月1日). http://ja.espnf1.com/japan/motorsport/story/29903.html 2010年10月2日閲覧。

^ [http://ms.toyota.co.jp/public/jp/features/2008_japan/report_01.html “F”COMMUNICATION 2008 トヨタF1カースペシャル走行イベント in MEGA WEBを開催!] - トヨタF1アーカイブ(2008年10月4日)2012年11月9日閲覧。

^ a b 尼崎のやんちゃ坊主から日本の期待へ!! 小林可夢偉 - TDPコラム(2010年12月22日)2012年11月9日閲覧。

^ “あびる、可夢偉との熱愛否定「良い友達」”. サンケイスポーツ. (2010年10月19日). http://www.sanspo.com/geino/news/101019/gna1010190505000-n1.htm 2010年10月19日閲覧。

^ “あびる優 小林可夢偉と交際順調「結婚は若いうちにしておきたい」”. スポニチAnnex. (2011年1月29日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/01/29/kiji/K20110129000145410.html 2011年1月29日閲覧。

^ “あびる優、F1マレーシアGPでも小林可夢偉に同行”. F1-Gate.com. (2011年4月11日). http://f1-gate.com/kamui/f1_11396.html 2011年8月3日閲覧。

^ 小林可夢偉、WTCC鈴鹿に見参。親友吉本を激励 - オートスポーツweb(2010年10月23日)2012年月日閲覧。

^ 小林可夢偉、「世界の果てまでイッテQ!」に出演 - F1-Gate.com(2012年9月30日)2012年11月9日閲覧。

^ http://www.formula1.com/news/headlines/2011/11/12830.html





【外部リンク】



◆小林可夢偉オフィシャルサイト

→ http://www.kamui-kobayashi.com/



◆小林可夢偉(kamui_kobayashi) - Twitter

→ https://twitter.com/#!/kamui_kobayashi









【喜伝会会長のコメント】



◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!



◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・小林可夢偉がケータハムでF1参戦すること。

 ・・・小林可夢偉は9歳でカートを始め、少年の頃より憧れのドライバーはアイルトン・セナであると発言していること。

 ・・・小林可夢偉は2009年1月24日、バーレーンGPのレース1で優勝し、日本人初の連勝し、2位に13ポイント差をつけランキング首位で挑んだ3月25日の最終戦、バーレーンの第1レースで4位入賞したことにより、第2レースを待たずしてアジアシリーズチャンピオンを獲得し、F1直下のカテゴリーで日本人が王座を獲得したのは初めてであること。

 ・・・可夢偉(かむい)という名前はアイヌの民族信仰で神とされる「カムイ」と、「偉大な夢を可能にする[29]」という言葉の漢字3文字から命名されたこと。

 ・・・小林可夢偉の実家は寿司屋を経営していること。

 ・・・小林可夢偉の子供の頃は最初からレーサーを志していたわけではなく、当初の夢はお笑い芸人になることだったこと。



◆喜伝会会長のコメント

 ・・・歴代の日本人F1選手として、一番期待できる選手!例年10位-12位の元ロータスレーシングのケータハムでの6位以上での入賞を期待したい!









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空飛ぶ車「エアロモービル」、スロバキアからテイクオフ

2014年01月22日 10:54 発信地:ブラチスラバ/スロバキア



【1月22日 AFP】「空を飛びたい」という人類の思いが、また新たな形で実現された──スロバキアで先ごろ、空を飛ぶことのできる自動車「エアロモービル(Aeromobil)」の試作車がテストフライトに成功している。この陸空両用車は、スロバキアの技術者、ステファン・クライン(Stefan Klein)さんによって開発されたものだ。



 フランスの作家ジュール・ヴェルヌ(Le Jules Verne)やアントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(Antoine de Saint-Exupery)の作品から影響を受けたクラインさんは、1990年代の初めごろから「空を飛ぶ機械」の制作に取り組んできた。



「空への思いは持って生まれたものだね。祖父も父親も超軽量動力機で飛行していたし、私も自動車免許を取得できる年頃には、もうすでにパイロットの免許を持っていたから」と話す。



 青と白で彩られたエレガントなデザインのエアロモービル。全長約6メートルで駐車スペースや車庫で特別困ることもない。燃費の面では、1時間で15リットルのガソリンを消費するが、どこのガソリンスタンドでも補給可能だ。



 飛行場に到着したら、格納されていた主翼を広げるだけで数秒で飛行モードに早変わりできる。この2人乗りの陸空両用車の最高飛行速度は時速200キロで、最長飛行距離は約700キロだという。



■高い評価



 米航空誌「Flying」や革新的なデザイン・技術を紹介するウェブサイト「Inhabitat.com」はエアロモービルを「これまでで最も魅力的なデザインの空飛ぶ車」と評価した。



 デザイナーでもあるクラインさんは、BMWやフォルクスワーゲン(Volkswagen)、アウディ(Audi)といった自動車メーカーでのデザインに携わった経験を持っている。



 またスロバキア超軽量動力機連盟(Slovak Ultra Light Aviation Federation)の会長ミラン・チバ(Milan Ciba)氏は「世界全体ではこれまで、空飛ぶ車の製作が20例ほど試みられてきたが、その中で最も生き残る可能性が高いのはエアロモービルだと思う」とコメントした。



「空飛ぶ車」をめぐっては、米航空機ベンチャーのテラフジア(Terrafugia)社が2人乗りの陸空両用航空機「トランジション(Transition)」を1年以内に市場へ投入する予定。またオランダの企業が開発したジャイロコプター型陸空両用車「PAL-V(Personal Air and Land Vehicle、個人用陸空両用車)」も今年中に発売となる可能性がある。



 クラインさんのチームは現在、次世代エアロモービルの開発に取り組んでいる。近い将来に製品化し、超軽量動力機として正式な認可を得たいとしている。



 しかし熱心なパイロットでもあるクラインさんだが、エアロモービルの今後についてはあくまで現実的な未来像を描いているようだ。



「エアロモービルを大量生産しようとは思わない。移動手段として、選択肢の一つになればと思う。ただ、ロシアや中国、オーストラリアといった、インフラストラクチャーがまだ十分に整備されていない場所が残っている国では、(エアロモービルは)興味深い存在になると思うよ」



(c)AFP/Tatiana JANCARIKOVA







「Terrafugia Transition」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/Terrafugia_Transition









【Terrafugia Transition(テレフギア・トランジション)】は、米国のTerrafugia社が製造する空陸両用の軽飛行機である。2006年に開発を開始し[1]、2012年現在は試験段階にある。





【概要】

Transitionのエンジンにはロータックス社の912S型ピストンエンジンが採用されている。地上走行時は後輪駆動の動力、飛行時には推進式プロペラの駆動動力として使用される。燃料には無鉛ガソリンを使用し、最高速度185km/h、航続距離740km(いずれも飛行時)を実現する。地上での最高速度は105km/hである[2] 。機体はカーボンファイバー製で、折りたたみ可能な主翼と双尾翼を持つ。主翼を折りたたんだ状態の寸法は、車高2.0m、車幅2.0m、車長5.9mであり、米国の標準的な車庫に収納できるように設計されている。自動操縦装置は装備していない。発売時の価格は20万から25万米ドルと予想されている[1]。また、2010年時点では予約金1万ドル(約80万円)にて同社のホームページで予約も行なっている。当初は2011年の初出荷を目指していた[1]。



試作機は米連邦航空局 (FAA) の監督のもとニューヨーク州のプラッツバーグ国際空港(英語版)で機体記号N302TFを付けて2009年3月5日に初飛行を行った[3][4][5] 。



2010年7月1日、Terrafugia社はFAAの最大離陸重量規定の適用除外を受け、重量650kgながら軽量スポーツ用航空機(英語版)の認定を受けられるようになったことを発表した(通常、軽量スポーツ用航空機の最大離陸重量は600kgに制限されている)。これにより、路上走行用の自動車に義務付けられているエアバッグやバンパーなどを装備できるようになった[6][7]。



2012年4月には、国際自動車展示会のニューヨーク国際オートショーに出展された。TerrafugiaのディートリッヒCEOによると、年内は試験を続行して2013年の発売を目指している[8]。





【仕様】

アメリカのウィスコンシン州で開催されたオシュコシュ航空ショー(英語版)で、2010年7月26日にTransition量産機の仕様が公開された[9][10]。



項目 共通 地上走行時 飛行時

乗員/乗客 1/1(合計2名)

全長 5.9m 6.0m

全幅 2.3m 8.1m

全高 2.0m 2.0m

空虚重量 440kg

積載重量 210kg

最大離陸重量 650kg[6]

エンジン ロータックス社912S×1基

出力 最大100馬力(75kW)

@5800rpm(5分)

95馬力(71kW)

@5500rpm(連続)

積載燃料 87リットル

航続距離 1,296km 787km

燃費 6.7リットル/100km 19リットル/時

最高速度 105km/h 100ノット

(185km/h)

巡航速度 93ノット

(172km/h)

ストール速度 45ノット

(82km/h)





【脚注】

^ a b c “空飛ぶ自動車「Transition Roadable Aircraft」、2011年末に製造開始か”. cnet Japan. 2010年9月29日閲覧。

^ “The Transition(カタログ) (PDF)” (英語). Terrafugia (2010年). 2010年9月28日閲覧。

^ Phillips, Matt (2009年3月18日). “Flying Car Takes First Flight”. The Middle Seat Terminal (The Wall St. Journal). http://blogs.wsj.com/middleseat/2009/03/18/flying-car-takes-first-flight/?mod=rss_WSJBlog 2009年3月19日閲覧。

^ Haines, Thomas B. (2009年5月). “Waypoints: From highway to airway”. AOPA. 2009年5月10日閲覧。

^ “The Transition® Proof of Concept” (英語). Terrafugia. 2010年9月29日閲覧。

^ a b “'Flying Car' Gets Big Break From FAA”. CBS News. 2010年7月1日閲覧。

^ “Exemption number 10072 (PDF)”. FAA (2010年5月27日). 2010年7月9日閲覧。

^ NYオートショーで「空飛ぶ自動車」お披露目(MSN産経ニュース 2012年4月4日)

^ “"Flying Car" Moves Closer to First Delivery”. Terrafugia (2010年7月26日). 2010年7月27日閲覧。

^ “Terrafugia - Transition the Roadable Light Sport Aircraft : The Vehicle”. Terrafugia (2008年). 2009年3月25日閲覧。





【外部リンク】



◆Terrafugia社公式サイト

→ http://www.terrafugia.com/











【喜伝会会長のコメント】



◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!



◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・Terrafugia Transition(テレフギア・トランジション)】は、米国のTerrafugia社が製造する空陸両用の軽飛行機であり、2006年に開発を開始し、2013年に販売予定だったこと。

 ・・・Transitionのエンジンにはロータックス社の912S型ピストンエンジンが採用されており、地上走行時は後輪駆動の動力、飛行時には推進式プロペラの駆動動力として使用されていること。

 ・・・Transitionの燃料には無鉛ガソリンを使用し、最高速度185km/h、航続距離740km(いずれも飛行時)を実現し、地上での最高速度は105km/hであること。

 ・・・Transitionの機体はカーボンファイバー製で、折りたたみ可能な主翼と双尾翼を持ち、翼を折りたたんだ状態の寸法は、車高2.0m、車幅2.0m、車長5.9mであり、米国の標準的な車庫に収納できるように設計されているが、自動操縦装置は装備していないこと。

 ・・・Transitionの発売時の価格は20万から25万米ドルと予想されており、2010年時点では予約金1万ドル(約80万円)にて同社のホームページで予約も行なっていること。



◆喜伝会会長のコメント

 ・・・車が空を飛ぶのが現実になっていたとは知らなかった!空の交通ルールはどうなるんだろうか?

 ・・・Terrafugia Transitionの走行から飛行の動画リンクは以下の通り。駐車場から出てきたときには羽が折りたたまれていて、飛行場ではそれが伸びて飛び立つのはスゴイ!









【Terrafugia Transitionの走行から飛行の動画リンク】

→ http://www.youtube.com/watch?v=KeXRGhhKDGs&feature=player_embedded











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★白馬高校→早稲田大学→北野建設の渡部暁斗が20年ぶりの銀メダル【喜伝会おすすめニュース】

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★白馬高校→早稲田大学→北野建設の渡部暁斗が20年ぶりの銀メダル【喜伝会おすすめニュース】





【2月13日 AFP】ソチ冬季五輪は12日、ノルディックスキー複合の個人ノーマルヒルが行われ、渡部暁斗(Akito Watabe)が銀メダルを獲得した。1位はドイツのエリック・フレンツェル(Eric Frenzel)、3位はノルウェーのマグヌス・クローグ(Magnus Krog)だった。



 春のような気候の中、冷静さを保ったフレンツェルが一気のスパートで金メダルを獲得した。



 前半の飛躍を制したフレンツェルが首位でスタートすると、後半距離の10キロメートルは渡部とフレンツェルの一騎打ちとなった。



 ルスキエ・ゴルキ・ジャンピング・センター(RusSki Gorki Jumping Center)の気温が摂氏10度を超える中、渡部はフレンツェルを追ってスタートし、果敢にリードしたが、ラストスパートでフレンツェルに振り切られた。



 最後は、バンクーバー冬季五輪の団体銅メダリストのフレンツェルが23分50秒2の1位でフィニッシュ。渡部は23分54秒4で2位、3位のクローグは23分58秒3だった。(c)AFP









「渡部暁斗」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%9A%81%E6%96%97









【渡部 暁斗(わたべ あきと、1988年5月26日 - )】は長野県白馬村出身のノルディック複合選手。同じくノルディック複合選手の渡部善斗は実弟。





【来歴】

長野県白馬高等学校在籍中の2006年にトリノオリンピックに出場。早稲田大学進学後は2009年世界選手権の団体戦(湊祐介、加藤大平、渡部暁斗、小林範仁)では日本14年ぶりの金メダル獲得に貢献した。2010年1月、ノルディック複合・ワールドカップ オーストリア・ゼーフェルト大会で3位となり、初めてW杯個人戦の表彰台に登った。2月にはバンクーバーオリンピックに出場し、個人(ラージヒル)では日本勢最高の9位。



大学卒業後は、北野建設に所属。2011/12シーズンは序盤から好調で、ワールドカップ開幕戦の フィンランド・クーサモ大会でW杯自己最高順位となる2位。12月のゼーフェルト大会でも同順位に入ると、2月5日 イタリア・ヴァル・ディ・フィエンメ大会で念願の初優勝を果たした。日本人のW杯優勝は2004年3月の高橋大斗以来4人目である。その後も好調を維持し、このシーズンは4勝を挙げて最終戦まで総合優勝の可能性を残した。結局ジャゾン・ラミー=シャプイ(フランス)に優勝は譲ったものの、日本人としては1995/96シーズンの荻原健司以来のW杯総合2位という快挙を果たした。



2012-13シーズンは世界選手権で出場4種目中3種目で4位と表彰台をあと一歩で逃し続け、「(4位が)僕の居場所という感じですね」とコメントを残すなど悔しさを味わった[1]。しかし、世界選手権後はワールドカップで2大会連続で2位に入り、うち3月15日のノルウェー・オスロ大会では弟・善斗も3位に入り、1995年の荻原兄弟以来となる日本人の兄弟選手によるワールドカップ表彰台獲得を果たした。



2013-14シーズンは夏から好調な滑り出しを見せ、サマーグランプリでは初の総合優勝を果たした。ワールドカップでは優勝こそなかったものの、第2戦・リレハンメル大会の2位をはじめ、3位が4回、出場10戦全てで8位以内に入る安定感を見せた。年末にインフルエンザを発症するアクシデントはあったものの、オリンピック前最後のワールドカップとなったオーベルストドルフ大会でも3位に入り、個人総合2位と好調を維持してオリンピック本番を迎えた。



ソチオリンピックでは初戦の個人ノーマルヒルで、前半ジャンプでトップだったエリック・フレンツェル(ドイツ)から6秒差の2位につけると、後半クロスカントリーではフレンツェルと共にトップ集団を形成。終盤までフレンツェルと互いにトップに出ながら激しく競り合い、スタジアムに入ったところで仕掛けたフレンツェルのスパートに離されたものの、4.2秒差で2位に入り銀メダルを獲得した。オリンピックでのノルディック複合の個人でのメダルは、1994年・リレハンメルオリンピックで銀メダルを獲得した河野孝典以来20年ぶり2人目となった[2]。



【主な戦績】



◆オリンピック



・2006年トリノオリンピック( イタリア)

個人スプリント19位



・2010年バンクーバーオリンピック( カナダ)

個人(グンダーセン、ノーマルヒル)21位

個人(グンダーセン、ラージヒル)9位

団体6位(加藤大平、高橋大斗、渡部暁斗、小林範仁)



・2014年ソチオリンピック( ロシア)

個人(グンダーセン、ノーマルヒル)2位



◆ノルディックスキー世界選手権



・2007年札幌( 日本)

個人スプリント31位、個人グンダーセン35位、団体8位



・2009年リベレツ( チェコ) 

個人(グンダーセン、ノーマルヒル)33位、団体優勝



・2011年オスロ( ノルウェー) 

個人ノーマルヒル5位、団体ノーマルヒル6位、個人ラージヒル13位、団体ラージヒル5位



・2013年ヴァル・ディ・フィエンメ( イタリア)

個人ノーマルヒル9位、団体ノーマルヒル4位、個人ラージヒル4位、団体スプリント4位



◆FISワールドカップ



・通算勝利数:4勝(初勝利 2012年2月 イタリア・ヴァル・ディ・フィエンメ大会)

・通算表彰台獲得数:21回(2位 9回、3位 8回) ※2014年1月26日現在

・シーズン個人総合成績 

2005/06シーズン 47位 

2008/09シーズン 38位 

2009/10シーズン 18位 

2010/11シーズン 11位 

2011/12シーズン 2位 

2012/13シーズン 3位



◆ノルディックスキージュニア世界選手権



・2006年クラーニ大会

個人スプリント2位





【脚注】

1.^ 世界ノルディック:「僕の居場所…」渡部暁また4位 毎日新聞 2013年3月3日閲覧

2.^ 渡部暁斗 ノルディック複合で銀メダル! 複合では20年ぶり スポーツニッポン 2014年2月12日閲覧











【外部リンク】



◆公式ブログ

→ http://ameblo.jp/akitowatabe/



◆Akito Watabe (WTBAKT) - Twitter

→ https://twitter.com/WTBAKT



◆日本オリンピック委員会によるプロフィール

→ http://www.joc.or.jp/torino/athlete/nordiccombined/watabeakito.html



◆FIS Biography WATABE Akito(英語)

→ http://www.fis-ski.com/uk/604/613.html?sector=NK&listid=&competitorid=89882&type=result



◆渡部暁斗 - バイオグラフィーとオリンピックでの成績(英語)

→ http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/wa/akito-watabe-1.html











【喜伝会会長のコメント】



◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!



◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・渡部暁斗が小学校3年生の冬に長野オリンピックがあり、その時にジャンプ競技を見に行って「すごい!僕もやってみたい!」と思って始めたこと。

 ・・・渡部暁斗が長野県白馬高等学校在籍中の2006年にトリノオリンピックに出場していたこと。

 ・・・渡部暁斗が早稲田大学進学後は2009年世界選手権の団体戦(湊祐介、加藤大平、渡部暁斗、小林範仁)では日本14年ぶりの金メダル獲得に貢献したこと。

 ・・・渡部暁斗が大学卒業後は、北野建設に所属。2011/12シーズンは序盤から好調で、ワールドカップ開幕戦の フィンランド・クーサモ大会でW杯自己最高順位となる2位だったこと。

 ・・・渡部暁斗のオリンピックでのノルディック複合の個人でのメダルは、1994年・リレハンメルオリンピックで銀メダルを獲得した河野孝典以来20年ぶり2人目となったこと。



◆喜伝会会長のコメント

 ・・・オリンピックを見て、夢を抱き、選手としての道を進み、その夢を実現する!オリンピックは皆の夢を作る最高のステージだと思う!

 ・・・渡部暁斗の出る種目は見逃せない!是非、金メダルを手に入れて欲しい!。









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★新人賞を総なめしたくろきはる黒木華が伯林映画祭で最優秀女優賞!【喜伝会おすすめニュース】

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★新人賞を総なめしたくろきはる黒木華が伯林映画祭で最優秀女優賞!【喜伝会おすすめニュース】





ベルリン映画祭、黒木華に最優秀女優賞 アジア勢が主要3部門制す

2014年02月17日 09:10 発信地:ベルリン/ドイツ



【2月17日 AFP】ドイツのベルリン(Berlin)で6日から開催されていた第64回ベルリン国際映画祭(Berlin International Film Festival)は、アジア映画が圧倒的な勝利を収め、16日に閉幕した。



 15日夜の授賞式で最優秀作品賞の金熊賞に輝いたのは、中国のディアオ・イーナン(Diao Yinan)監督によるサスペンス映画『白日烟火(Black Coal, Thin Ice)』。主演のリャオ・ファン(Liao Fan)も最優秀男優賞の銀熊賞を受賞した。



 中国映画がベルリン映画祭を制したのは、2007年のワン・チュアンアン(Wang Quan'an)監督による型破りのラブストーリー、『トゥヤーの結婚(Tuya's Marriage)』が金熊賞を獲得して以来。



 アジア勢ではまた、日本の山田洋次(Yoji Yamada)監督(82)の『小さいおうち(The Little House)』で戦時中の東京で働く女中を演じた黒木華(Haru Kuroki)が最優秀女優賞の銀熊賞を受賞した。山田監督は、現代の日本人が戦争の恐怖を忘れないようにとの思いで同映画を制作したと語っている。



 英俳優レイフ・ファインズ(Ralph Fiennes)主演で第2次世界大戦前の欧州を懐古的に描いたウェス・アンダーソン(Wes Anderson)監督の『グランド・ブダペスト・ホテル(The Grand Budapest Hotel)』は、銀熊審査員大賞を受賞した。(c)AFP/Deborah COLE











「黒木華」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C%A8%E8%8F%AF







【黒木 華(くろき はる、1990年3月14日[1] - )】は日本の女優。大阪府出身。京都造形芸術大学芸術学部映画学科俳優コースに在学していた(卒業年次不明)[2][3][4]。パパドゥ所属[1]。





【略歴・人物】

京都造形芸術大学では林海象[5]、東陽一[6]らに師事して演技を学ぶ。大学在学中の2009年に野田秀樹の演劇ワークショップに参加し、オーディションに合格してNODA・MAPの公演『ザ・キャラクター』にアンサンブルとして出演してデビューした。さらに番外公演の『表に出ろいっ!』ではヒロイン役のダブルキャストの一人として十八代目中村勘三郎らとともに舞台に立った[7]。



その後もNODA・MAPのほかに阿佐ヶ谷スパイダースなどの舞台に出演し、2011年には『東京オアシス』にメインキャストとして映画初出演している。



2012年以降は『おおかみこどもの雨と雪』で声優初挑戦、2013年には連続テレビ小説『純と愛』、『リーガルハイ』第2シリーズなどのテレビドラマでレギュラー出演し、映画でも初主演(ダブル主演)した『シャニダールの花』や『舟を編む』での演技が評価され、キネマ旬報ベストテンや日本アカデミー賞など、日本の主要映画賞で計5つの新人賞を受賞した。2014年には『小さいおうち』で第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を、日本の女優として左幸子、田中絹代、寺島しのぶに次いで史上4人目の受賞を果たした[8]。



岩井俊二はCMの演出を手掛けた際に黒木を評して「文学的な香りがする女優」と語っている[9]。





【受賞歴】

第5回TAMA映画賞 最優秀新進女優賞(『シャニダールの花』『舟を編む』『草原の椅子』)[10]

第26回日刊スポーツ映画大賞 新人賞(『舟を編む』『草原の椅子』ほか)

第87回キネマ旬報ベスト・テン 新人女優賞(『舟を編む』『シャニダールの花』『草原の椅子』『まほろ駅前番外地』『くじけないで』)

第35回ヨコハマ映画祭 最優秀新人賞(『舟を編む』『シャニダールの花』『草原の椅子』『くじけないで』)

第37回日本アカデミー賞 新人俳優賞(『舟を編む』『草原の椅子』)[11]

第56回ブルーリボン賞 新人賞(『草原の椅子』『舟を編む』『シャニダールの花』)[12]

第23回東京スポーツ映画大賞 新人賞(『舟を編む』『草原の椅子』)

第64回ベルリン国際映画祭 最優秀女優賞(銀熊賞、『小さいおうち』)





【出演リスト】



◆テレビドラマ

連続テレビ小説(NHK)

純と愛 第1 - 76・148 - 149話(2012年10月1日 - 12月27日・2013年3月27日 - 28日) - 田辺千香 役[13]

花子とアン(2014年3月31日より放送予定) - 安東かよ 役

まほろ駅前番外地 第8話(2013年3月1日、テレビ東京) - 宮本由香里 役

リーガルハイ(2013年10月9日 - 12月18日、フジテレビ) - 本田ジェーン 役

世にも奇妙な物語'13 秋の特別編 「ある日、爆弾がおちてきて」(2013年10月12日、フジテレビ) - 永峰はるか / パルカ 役[14]



◆映画

東京オアシス(2011年10月22日、スールキートス) - ヤスコ 役

おおかみこどもの雨と雪(2012年7月21日、東宝) - 雪(少女期 / 声) 役[15]

BUNGO~ささやかな欲望~ 告白する紳士たち 「握った手」(2012年9月29日、角川映画) - 綾子 役

草原の椅子(2013年2月23日、東映) - 遠間弥生 役

舟を編む(2013年4月13日、松竹 / アスミック・エース) - 岸辺みどり 役

シャニダールの花(2013年7月20日、ファントム・フィルム) - 主演・美月響子 役[16][17]

くじけないで(2013年11月16日、松竹) - 柴田静子(青年期) 役

小さいおうち(2014年1月25日、松竹) - 布宮タキ 役

銀の匙 Silver Spoon(2014年3月7日公開予定、東宝) - 南九条あやめ 役[18]



◆舞台

NODA MAP

ザ・キャラクター(2010年6月20日 - 8月8日、東京芸術劇場)[19]

表に出ろいっ!(2010年9月5日 - 28日、東京芸術劇場) - 娘 役[20][21]

南へ(2011年2月10日 - 3月31日、東京芸術劇場) - あまねに似た少女 役[22]

阿佐ヶ谷スパイダースPRESENTS

荒野に立つ(2011年7月14日 - 8月12日、東京 / 地方) - 田端 役[23]

蜷川幸雄演出

あゝ、荒野(2011年10月29日 - 12月2日、埼玉 / 東京) - 芳子 役[24]

ゴーチ・ブラザーズ

飛龍伝(2013年1月23日 - 27日、本多劇場) - 主演・神林美智子 役[25][26]

栗山民也演出

SEMINAR セミナー(2013年12月13日 - 29日、東京 / 兵庫) - ケイト 役



◆テレビ番組

岩井俊二映画祭presents マイリトル映画祭(2012年3月4日 - 、BS日本映画専門チャンネル)



◆CM

日本映画衛星放送 BS日本映画専門チャンネル(2012年2月 - )

SUNTORY ウイスキー角瓶(2012年4月 - )

SMBC日興証券 NISA(2012年7月 - )





【脚注】

1.^ a b c d Web版TVスター名鑑 黒木華(2012年4月17日時点のアーカイブ)

2.^ “京都造形芸術大学、京都文芸復興を掲げ、 - NR「正しく生きる」クランクイン(最終版) (PDF)” (日本語). 京都造形芸術大学 (2013年2月1日). 2013年11月2日閲覧。

3.^ “【来る年・来る娘】黒木華” (日本語). SANSPO.COM. 産経新聞社 (2011年1月9日). 2011年12月15日閲覧。

4.^ “黒木華-出演者-野田地図” (日本語). NODA・MAP. 2011年12月15日閲覧。

5.^ 近況などなど、2010年9月13日、林海象ブログ、2012年11月22日参照。

6.^ 3回生東ゼミ作品「女子」+「男子」上映会、2010年12月17日、映画学科ブログ(京都造形芸術大学)、2012年11月22日参照。

7.^ “NODA・MAP「表に出ろいっ!」ヒロインオーディション” (日本語). NODA・MAP. 2013年11月2日閲覧。

8.^ 山田洋次監督「小さいおうち」の黒木華に女優賞…ベルリン国際映画祭(2014年2月16日)、スポーツ報知、2014年2月16日閲覧。

9.^ “黒木華&刈谷友衣子、リモコンを手にシュールな演技” (日本語). MSN産経ニュース. マイクロソフト (2012年2月29日). 2012年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月31日閲覧。

10.^ 第5回TAMA映画賞 | 第23回映画祭TAMA CINEMA FORUM、2013年、TAMA CINEMA FORUM、2013年10月11日閲覧。

11.^ “第37回日本アカデミー賞優秀作品発表!”. 日本アカデミー賞公式サイト. 2014年1月17日閲覧。

12.^ 第56回ブルーリボン賞 作品賞は「横道世之介」(2014年1月23日)、スポニチアネックス、2014年1月23日閲覧。

13.^ “次期連続テレビ小説「純と愛」の出演者を発表します!”. NHKドラマトピックス. 2012年4月24日閲覧。

14.^ テレビドガッチ (2013年8月27日). “今秋放送『世にも奇妙な物語'13秋の特別編』で松坂桃李がシリーズ初出演!”. 2013年8月30日閲覧。

15.^ “宮崎あおい&大沢たかおが『おおかみこどもの雨と雪』の声優で初共演!”. ニュースウォーカー. 2012年4月6日閲覧。

16.^ 綾野剛とのW主演。

17.^ 綾野剛&黒木華、石井岳龍監督「シャニダールの花」にW主演

18.^ CINRA.NET (2013年8月7日). “荒川弘の漫画『銀の匙 Silver Spoon』が実写映画化、八軒役はSexy Zone中島健人”. 2013年8月19日閲覧。

19.^ NODA MAP第15回公演 「ザ・キャラクター」紹介

20.^ 太田緑ロランスとのWキャスト。

21.^ NODA MAP番外公演 「表に出ろいっ!」紹介

22.^ NODA MAP第16回公演 「南へ」紹介

23.^ 阿佐ヶ谷スパイダースPRESENTS 阿佐ヶ谷スパイダース新作公演『荒野に立つ』キャスト&スタッフ一新で新境地 CINRA.NET(2011年5月31日)

24.^ 蜷川幸雄演出 彩の国さいたま芸術劇場紹介ページ

25.^ ゴーチ・ブラザーズ プロデュース公演 ゴーチ・ブラザーズ新着情報(2012年11月30日) 玉置玲央とのW主演

26.^ 中屋敷法仁演出 玉置玲央&黒木華主演でつかこうへい作『飛龍伝』を上演 出演者オーディションを実施、シアターガイド、2012年11月22日参照。





【外部リンク】



◆黒木華 - allcinema

→ http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=880245



◆Choice! C!ルーム 俳優・黒木華インタビュー

→ http://www.next-choice.com/data/?p=3224











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◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

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◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・黒木華が「くろきはな」ではなく、「くろきはる」だったこと。

 ・・・黒木華が京都造形芸術大学芸術学部映画学科俳優コースに在学していたこと。

 ・・・黒木華が新人賞を総なめしていたこと。

 ・・・黒木華がおおかみこどもの雨と雪(2012年7月21日、東宝) - 雪(少女期 / 声)役をしていたこと。

 ・・・黒木華が第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞したこと。また、日本の女優として左幸子、田中絹代、寺島しのぶに次いで史上4人目の受賞を果たしたこと。







◆喜伝会会長のコメント

 ・・・寺島しのぶを応援していることもあり、黒木華を今後応援します!まずは彼女が出演している映画を観なきゃ!









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★タモリ、江川達也、高橋留美子、堀威夫と仲良しな筒井康隆の遺言?【喜伝会おすすめニュース】

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★タモリ、江川達也、高橋留美子、堀威夫と仲良しな筒井康隆の遺言?【喜伝会おすすめニュース】





筒井康隆、「作家としての遺言」 新刊で「凄み」や「色気」説く小説作法

2014.2.26 10:30 (1/3ページ)



 巻頭の序言に〈作家としての遺言である〉とある。「こんなもん二度と書かないよって意味ですよ」。筒井康隆さん(79)が新刊『創作の極意と掟』(講談社)で、若い書き手らに向け、すべきこととやってはいけないことをユーモアを交えて説いている。豊富な実体験をもとに、散文芸術の本質から文人の生活までを網羅した風変わりで味わい深い創作作法だ。(海老沢類)



 ◆開拓者のために



 これほど「掟(おきて)」という言葉から遠い作家もいない。『虚人たち』では登場人物の意識に沿ってページを白紙にし、『ダンシング・ヴァニティ』では音楽や演劇を意識し、フレーズや場面の反復を試みた。SFと純文学の垣根を越えて60年近くで積み上げた著作は掟破りの実験の歴史でもある。



 「小説は何をどう書いてもいい芸術で、掟はない、という持論は変わらない。ただ知っておいた方がいいなと思うことはある。執筆を頼まれても遠慮してきたけれど、よぼよぼになっちゃったら小説作法なんて書けないから」と筒井さん。全31項目のうち、視点や登場人物、会話といった一般的な小説作法で重視される要素は後回し。「既存の技法の解説だけなら、新しく何かを開拓しようとする人の役に立たない」。代わって冒頭に置かれるのは〈凄(すご)み〉だ。〈色気〉〈迫力〉などとともに、小説が真に小説足りうる前提として、細かな技法を語る場面でも顔を出す。









「筒井康隆」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%BA%B7%E9%9A%86







【筒井 康隆(つつい やすたか、1934年(昭和9年)9月24日 - )】は、日本の小説家・劇作家・俳優である。ホリプロ所属。身長166cm。血液型はB型。小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも称される。パロディやスラップスティックな笑いを得意とし、初期にはナンセンスなSF作品を多数発表。1970年代よりメタフィクションの手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。



戦国時代の武将筒井順慶と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いているが、実際にはそのような伝承はないという。父は草分け期の日本の動物生態学者で、大阪市立自然史博物館の初代館長筒井嘉隆。息子は画家筒井伸輔。名前の康隆の「隆」の字は正確には、隆の字の夂と生の間に一が入る「隆」である[1]。





【経歴】



◆大学卒業まで



1934年(昭和9年)、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、父方の実家である大阪府大阪市北堀江に出生。生家は住吉区山坂町(現在の東住吉区山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、船場生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なった事[2]によるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。1941年(昭和16年)、南田辺国民学校に入学。幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『のらくろ』、エノケンに熱中。自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は江戸川乱歩を愛読した。1944年(昭和19年)、吹田市千里山に学童疎開し、千里第二国民学校に転校。地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。終戦後の1946年(昭和21年)、息子の成績不振を心配した父の計らいで大阪市立中大江小学校に転校。まもなく実施された知能検査で市内トップのIQ178であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室[3](政府設置の特別科学学級とは異なる)に在籍した。



1947年(昭和22年)、大阪市立東第一中学校(現在は統合で大阪市立東中学校)に入学。この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。父親の金をくすねたり、母親の着物を勝手に持ち出して質屋に売り映画代を捻出していた[4]。その一方で手塚治虫に熱中し、赤塚不二夫や藤子不二雄などとともに『漫画少年』誌の投稿欄の常連でもあった。1948年(昭和23年)、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。1950年(昭和25年)、大阪府立春日丘高等学校に入学。演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている[5]。また、自宅の蔵書だったアルトゥル・ショーペンハウエルの『随想録』も愛読していたという[6]。この頃マルクス兄弟の映画に傾倒。受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、サルトルやトーマス・マンの作品に影響を受ける。



1952年(昭和27年)2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。同年4月、同志社大学文学部心理学科[7]に入学し、同志社小劇場に所属する。この頃カフカ、アルツィバーシェフ、ヘミングウェイ等を愛読し影響を受けた。また潜在意識について興味を持ち、吹田市の実家から京都市までの電車での通学時間を利用して、日本教文社版のフロイト全集を読破。その後美学美術史学科に転じシュルレアリスムに興味を持つ。1954年(昭和29年)、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「青猫座」に入団。初舞台は飯沢匡の『北京の幽霊』。同年日活のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年(昭和30年)、大阪毎日会館で『二十日鼠と人間』主役を演じた際には、「東の仲代達矢、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。1957年(昭和32年)、大学を卒業。卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。卒業後、展示装飾などを手がける乃村工藝社に入社し営業部に勤務。サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。

執筆活動初期



1959年(昭和34年)12月に創刊された雑誌『SFマガジン』を読み衝撃を受け、1960年(昭和35年)6月、ボーナスをつぎ込んでSF同人誌『NULL』を創刊。父と三人の弟が同人であり、康隆、正隆、俊隆がSF短編を、父嘉隆が家族の紹介文を、四男の之隆がカットを担当した。同人誌を出したのは当時SF小説を受け入れられるような新人賞がなかったためであるが[8]、うまくマスコミに取り上げられ、「筒井一家」紹介記事がたびたび新聞に掲載、また毎日放送のテレビ番組に家族総出で出演したりもしている。さらに『NULL』創刊号は江戸川乱歩の目に留まり、弟の作品や父による紹介文とともに、短編「お助け」が乱歩主催の雑誌『宝石』1960年8月号に転載。これが実質的なデビュー作となった。以降注文を受けてショート・ショートを各誌に発表しながら『NULL』にナンセンスなSF短編を発表していく。



1961年(昭和36年)、4年間務めた乃村工藝社を退社、美学部美学科時代の先輩の後を継ぐ形で大阪市北区にデザイン事務所「ヌル・スタジオ」を立ち上げる。事務所の向かいの煉瓦会社で働いていた眉村卓と知り合い、後に小松左京らも加わり、「ヌル・スタジオ」はSF作家、SFファンのたまり場となっていった。 また、雑誌『NULL』も筒井家以外のSFファンにも門戸を開き、小松左京、眉村卓、平井和正らのプロデビューしている作家らも参加。創刊翌年の1961年(昭和36年)には、高校2年生の堀晃も参加した(『NULL』はのち、筒井が主宰した第三回日本SF大会「DAICON」(1964年(昭和39年))のレポートを兼ねた11号で終刊した)。



1962年(昭和37年)、『SFマガジン』のハヤカワ・SFコンテストで「無機世界へ」(後の「幻想の未来」の原形)が選外佳作となる。入選三席には小松左京、半村良がいた。翌年『SFマガジン』増刊号に「ブルドッグ」を発表し『SFマガジン』に初登場[9]。1964年(昭和39年)、第3回日本SF大会・大阪大会(DAICON)を主催、前年に創立されていた「日本SF作家クラブ」に参加し、SF作家たちとの交流を深める。1965年(昭和40年)、前年に脚本スタッフとして参加していたテレビアニメ『スーパージェッター』の商品化権料を多額に得て、作家専業のめどが立つ。



同1965年(昭和40年)、小松左京夫妻の仲人で光子夫人と見合い結婚。直後に東京へ行き専業作家となる。同年10月、初作品集『東海道戦争』出版。しかし、しばらくは生活が苦しく、1967年(昭和42年)頃、心配した小林信彦より『小説現代』などの中間小説誌を紹介され、以後中間小説誌での発表が増えていった。



◆ナンセンスから前衛文学へ



筒井はそれまでのナンセンス、ブラックユーモアの作風に加え、1970年代から様々な文体を用いた実験的な作品を発表していき、次第に熱狂的なファンを獲得していった。初期のよく知られている作品には、PTAによる悪書追放運動を批判した『くたばれPTA』(1966年)、社会風刺からナンセンスな笑いを引き出した『ベトナム観光公社』(1967年)、痴漢冤罪の恐怖を描いた『懲戒の部屋』(1968年)、SF長編としての総決算的作品『脱走と追跡のサンバ』、高度経済成長期に勃興したウーマンリブ運動やフェミニズムを揶揄した『女権国家の繁栄と崩壊』(ともに1970年)、エスパー七瀬を通して家族の裏側を書く『家族八景』、俗物的な人間を徹底的に風刺した『俗物図鑑』(ともに1972年)、小松左京『日本沈没』のパロディ「日本以外全部沈没」(1974年)など。1970年(昭和45年)の第1回星雲賞を長編部門、短編部門で独占してから計8度同賞を受賞した。また1968年(昭和43年)から直木賞に3度候補として挙げられたが(1967年『ベトナム観光公社』、1968年『アフリカの爆弾』、1972年『家族八景』)落選。筒井は後にこの経験から、作家志願者が文学賞選考委員を次々に殺していく(単行本の表紙には「張め。殺す。」「この源」「やいやい川~郎め。死ね。」などの記述が断片的にみられる)スラップスティック作品『大いなる助走』(1979年)を執筆している。



1970年(昭和45年)の『脱走と追跡のサンバ』の発表を境に自身の作品からは徐々に純SF的な作品が減っていきながらも、1971年(昭和46年)にはジュニア向けながら「SF入門の定番」として長年知られた『SF教室』を編集・執筆。また、1975年(昭和50年)から1976年(昭和51年)にかけては、各年度のベスト短編をあつめたアンソロジー『日本SFベスト集成』シリーズを編集した。



1972年(昭和47年)4月には東京から、妻の実家に近い神戸市垂水区に転居。筒井は両親と不仲であり、妻の親族たちとさかんに交際した。



1973年(昭和48年)8月には、SFファングループ「ネオ・ヌル」を山本義弘、小笠原成彦、岡本俊弥、大野万紀、水鏡子らと結成。1974年(昭和49年)の1月に『NULL』復刊第1号が発行。以降、この雑誌は、スポンサーが筒井、岡本俊弥を実質編集長として刊行されることとなる。第2期「NULL」の特色は、「会員から応募されたショート・ショートすべてに、筒井が的確な『寸評』を書いた」ことにあった[10]。また、筒井が当時編集していた年刊傑作選『日本SFベスト集成』に、筒井は「NULL」掲載作から作品を選んでいる。



この「ネオ・ヌル」グループをスタッフとして、筒井は大会名誉委員長として1975年(昭和50年)8月に、日本SF大会「SHINCON」を神戸で開催。この大会のテーマは後に有名になる「SFの浸透と拡散」であり、山下洋輔によるピアノ演奏、舞台『スタア』(劇団欅)の上演、桂米朝による落語「地獄八景亡者戯」など、企画の大半は筒井の人脈によるものであった。1977年(昭和52年)4月には「NULL」の最終号(7号)が刊行。なお、「ネオ・ヌル」出身の作家には、夢枕獏、山本弘、牧野修(亜羅叉の沙名義)、西秋生、高井信、水見稜(井沢昭夫名義)、児島冬樹、林巧らがいる。また、すでに「SFマガジン」でデビューしていたかんべむさしや、第1期「NULL」に参加していた堀晃も「ネオ・ヌル」には参加していた。



また、1980年(昭和55年)には日本SF作家クラブの事務局長として、徳間書店を後援とした日本SF大賞の創設に尽力。



一方で、1971年(昭和46年)より純文学雑誌『海』に作品の掲載をはじめ、純文学の分野にも進出。また同誌の海外作家特集を愛読し、ガルシア・マルケス、バルガス・リョサなど中南米の作家への興味を持った。1978年(昭和53年)には大江健三郎の紹介から『海』編集長塙嘉彦の訪問を受け、中南米の文学について教示を受けるなどして大きな影響を受けた。同年、登場人物が自身を虚構内の存在だと意識しているという設定を持つ『虚人たち』で泉鏡花文学賞を受賞。これを皮切りに、擬人化した文房具が乗り込む宇宙船団の混乱した群像・鼬の惑星の歴史・双方の戦乱とその末路を描き「純文学作品として」刊行した『虚航船団』(1984年)、夢と蓋然性をモチーフに独自の文学空間を切り開いた『夢の木坂分岐点』(1987年、谷崎潤一郎賞)、使用できる文字が1章ごとに1つずつ減っていくウリポ的な『残像に口紅を』(1989年)など、メタフィクションの技法を用いた言語実験的な作品を多数執筆。なお、『残像に口紅を』の執筆のためにワープロを導入し[11]、これ以降の作品はコンピュータを使用して書かれている。



1990年代にも、文芸批評と大学機構をシニカルに下敷きにした学問小説『文学部唯野教授』、パソコン通信を使って読者の意見をインタラクティヴに取り入れながら、十八番の虚実錯綜の手法を使って連載された『朝のガスパール』(1992年日本SF大賞)など話題作を発表した。『残像に口紅を』『文学部唯野教授』2作連載時にはストレスで胃穿孔を起こし入院、入院中にハイデガーを読んで影響を受け、以後死や別れをモチーフにした作品も増えていった。



◆断筆宣言以後



1993年(平成5年)、角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった『無人警察』内の癲癇の記述が差別的であるとして、日本てんかん協会から抗議を受け、数度交渉を行ったのちに決裂(後、筒井個人と団体間で解決)。このとき、筒井の自宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到したという[12]。さらに角川書店が無断で『無人警察』を削除したことに怒り、『噂の眞相』に連載していたマスコミ日記「笑犬樓よりの眺望」上で断筆を宣言。その動機について、内田春菊との対談で「いままで、いろんないやなことがあって、自主規制の問題なんかでも担当者にいやな思いをさせたけど、いちばんいやだったのは僕だったし、家族にまではそれは及ばなかった。でも、今度の場合は、家族や親戚にまで波及した」[13]「今回は家族や親戚を守るためなんです」[13]と語っている。また、瀬戸内寂聴との対談では「断筆宣言以前から、一方的に新聞にてんかん協会の抗議文が載りましたんで、文芸誌とかミニコミ誌とか読まない近所の人たちの中には、私の家族を犯罪者の家族を見るような目で見る人もいた」[14]と語っている。同じ時期に筒井の母が急性心筋梗塞で死去したため、「(てんかん協会の抗議に関わる心労が)亡くなったのにもいささか関係があったんじゃないかと思いますけれども」[14]とも述べている。



断筆宣言は業界内でも賛否両論を起こし、友人である大江健三郎(息子の大江光は癲癇の症状を持っている)からは、読売新聞紙上で「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」との批判を受けている。また大江は、自らを炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を「太ったカナリア」と揶揄している[15]。この他、吉本隆明、金井美恵子、浅田彰、絓秀実、渡部直己、村上龍などから批判を受けたため、筒井は「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」[16]「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」[17]と慨嘆した。特に絓秀実は『文学部唯野教授』の中にエイズ患者への差別描写があると部落解放同盟に注進し、筒井への糾弾を促した(ただし糾弾には至っていない)。



同年10月、断筆に至る経緯を記した『断筆宣言への軌跡』を刊行。同年10月14日にはテレビ朝日「朝まで生テレビ」特集「激論!表現の自由と差別」にゲストパネラーとして出演し、『無人警察』問題について自らの立場を主張すると共に、かつて「士農工商犬SF屋」という表現をめぐり部落解放同盟から糾弾されかけたことを明らかにした[18]。これは日本文壇におけるSF作家への差別を自虐的に語った言い回しだが、そもそも「士農工商穢多非人」という熟語は知らなかったので部落差別を揶揄する意図はなかったと、このとき筒井は小森龍邦に釈明している。筒井は以前「士農工商提灯屋」という表現に接したことがあり、洒落た表現なのでいつか使ってみようと思っていたとも、この番組で語っている。断筆宣言の直接な原因は団体の抗議では無く、事勿れで言い換えや削除を行う出版の現状と、同じ作家(文壇)でも安易な批判や騒ぎに便乗する者など、援護や擁護する動きが全く見られなかった事に業を煮やし「私、ぷっつんしちゃいました」と断筆宣言に至った。[19]



1994年(平成6年)4月1日、中野サンプラザにて山下洋輔らのジャズ演奏からなる「筒井康隆断筆祭」を開催。自身も演奏者として参加した。



断筆中の1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災で神戸市垂水区の自宅が被災する事態に見舞われる[20]。断筆中は演劇活動に力を入れ、またウェブサイトを開設し未発表作品の公開などを行なった。1997年(平成9年)、新潮社、角川書店、文藝春秋各社と出版社側で自主規制を行なわないことを確認する覚書を交わしたのち執筆再開、『邪眼鳥』で小説家復帰を果たした。執筆再開後はこれまでの作風に加えて、『わたしのグランパ』(1998年、読売文学賞)や『愛のひだりがわ』など、『時をかける少女』以来のジュブナイル小説や、還暦を過ぎたこともあり『敵』『銀齢の果て』といった老いをテーマにした作品も発表している。断筆解除後はトレードマークであった眼鏡やサングラスをかけるのを止め、口ひげを蓄えている。さらに2000年代に入ってからは公の場では和服を着ることが多くなり、古典的な文士然とした身なりがトレードマークとなった。東浩紀との交流からライトノベルに興味を持ち、2008年(平成20年)『ファウスト』にてライトノベル『ビアンカ・オーバースタディ』を掲載、宗田理に次ぐ高齢のライトノベル執筆者となった。



断筆解除後も、筒井は各新聞社との間で覚書を取り交わせずにいたが、2009年(平成21年)3月、以前『朝のガスパール』を連載していた朝日新聞社と覚書を取り交わし、同月30日より同新聞読書欄にてエッセイ『漂流―本から本へ』が連載(日曜日のみ)された[21]。



2012年(平成24年)7月13日から2013年(平成25年)3月13日まで、朝日新聞に小説「聖痕」が連載された。



◆俳優としての活動



1981年(昭和56年)8月9日、東京日比谷野外音楽堂にて、交友のあった山下洋輔らとともに、クラリネット奏者として『ジャズ大名セッション ザ・ウチアゲ コンサート』に出演。このとき観客に混じっていた、アート・プロデュサーの鶴本正三(雑誌「スターログ」発行人でもあった)に原宿ラフォーレでのイベントを依頼され、これをきっかけに劇団「筒井康隆大一座」を立ち上げる。翌年3月に自作『ジーザス・クライスト・トリックスター』を上演、筒井自身が主役を演じ、14日間の全日程すべて満席となった。翌年、名古屋、京都、神戸、大阪を巡業、以降も「大一座」は筒井の作品『スイートホームズ探偵』『人間狩り』などを上演し、1989年(平成元年)まで活動が続いた。



1993年(平成5年)の断筆宣言以降は、執筆による収入が無くなることもあって俳優業に力を入れ、久世光彦演出の単発ドラマやCM出演など、それ以前よりも頻繁に映画、テレビに出演するようになった。断筆解除後の1997年(平成9年)にはタレントとしてホリプロと契約[22]、執筆活動の傍ら映画やテレビドラマにたびたび出演している。1999年(平成11年)には蜷川幸雄の依頼でチェーホフの『かもめ』にトリゴーリン役で出演、2000年(平成12年)・2001年(平成13年)にも蜷川演出の三島由紀夫『弱法師』(『近代能楽集』)に主人公の義父役で藤原竜也と共演した。



原作者である『文学賞殺人事件 大いなる助走』にもゲスト出演し、SF作家を演じた。

シナリオについて



『文藝時評』のなかで筒井ともみを批評したさい、「戯曲=文学、シナリオ=非文学という線引きはもう無意味なのではないか」と書いたことがある。

自作の映画化作品『時をかける少女』のパロディ・シナリオ(シナリオ・時をかける少女『串刺し教授』所収)を書いたが、これは映画化されることを目的としたわけではない。また、映画化されていないシナリオに『大魔神』もあるが、これは企画が頓挫したため、出版のみに終わったと言われている。





【人物】



愛煙家であることから、近年の「禁煙ファシズム」を批判し、愛煙家団体「Go smoking」に参加している。1987年(昭和62年)には『健康ファシズム(当時の呼び名)』を揶揄する短編SF小説『最後の喫煙者』を執筆し、1995年に「世にも奇妙な物語」でドラマ化された際には、台詞ありのカメオ出演をしている。2004年(平成16年)には泉麻人、ダンカンほかが寄稿した本『喫煙者のユーウツ - 煙草をめぐる冒言』を共著として刊行している。



エッセイ等における筆鋒は鋭く、批判の際には相手の知性や品性を端的に攻撃し、愚者として印象づけているため、敵も多い。この戦闘性は小説にも及び、2007年に発表した『巨船ベラス・レトラス』でも、実名で海賊行為を糾弾された出版社以上に、誰にでもそれとわかるように情報企業が手痛い描かれ方をされている。さらに、かつて『堕地獄仏法』で公明党を擬した政党が支配する恐怖の未来を描き、創価学会の猛烈な攻撃を受けるや、『末世法華経』で応酬するという騒ぎを起こした。しかし、井上ひさし、大江健三郎といった政治的発言の多い友人を持ちながら、自らは政治と距離を置いている。この立場を戯画的に描いた『旗色不鮮明』などでも明らかだが、これは意識した上でのことである。ただし1982年(昭和57年)の反核文学者声明に名を連ねたこともある。この際に揶揄的な批判に対しては反駁を加えている。



東京での活動が多くなったことから、神戸市垂水区の他に(以前の東京居住時と同じ)原宿にも自宅を構えている。



衆議院議員筒井信隆、俳優の筒井道隆とは名前が似ているが、縁戚関係はない。





【受賞・叙勲歴】



1970年(昭和45年) - 『霊長類南へ』で第1回星雲賞(日本長編部門)、『フル・ネルソン』で同賞(日本短編部門)受賞。

1971年(昭和46年) - 『ビタミン』で第2回星雲賞(日本短編部門)受賞。

1974年(昭和49年) - 『日本以外全部沈没』で第5回星雲賞(日本短編部門)受賞。

1975年(昭和50年) - 『おれの血は他人の血』で第6回星雲賞(日本長編部門)受賞。

1976年(昭和51年) - 『七瀬ふたたび』で第7回星雲賞(日本長編部門)、『スタア』で同賞(映画演劇部門)受賞。

1977年(昭和52年) - 『メタモルフォセス群島』で第8回星雲賞(日本短編部門)受賞。

1981年(昭和56年) - 『虚人たち』で第9回泉鏡花文学賞受賞。

1987年(昭和62年) - 『夢の木坂分岐点』で第23回谷崎潤一郎賞受賞。

1989年(平成元年) - 『ヨッパ谷への降下』で第16回川端康成文学賞受賞。

1990年(平成2年) - ダイヤモンド・パーソナリティー賞受賞。

1991年(平成3年) - 日本文化デザイン賞受賞。

1992年(平成4年) - 『朝のガスパール』で第12回日本SF大賞受賞。

1997年(平成9年) - 神戸市名誉市民勲章受章。フランス・芸術文化勲章シュバリエ章叙勲。フランス・パゾリーニ賞を受賞。

2000年(平成12年) - 『わたしのグランパ』で第51回読売文学賞受賞。

2002年(平成14年) - 紫綬褒章受章。

2010年(平成22年) - 第58回菊池寛賞受賞。



※『スタア』は演出:福田恆存・荒川哲生による。





【関連人物】



ロジャー・パルバース - 筒井を「ユダヤ人以上にユダヤ的」と評する。

山藤章二 - 筒井の作品の表紙絵や挿絵を多く手掛けるイラストレーター。表紙絵や挿絵などで筒井の似顔絵を描く場合(例・『笑犬樓よりの眺望』の表紙カバー)、美男子過ぎて描けないという理由で(また表情がないほうが筒井の毒や悪意を表現できる、という理由で)目・鼻・口を省略し「のっぺらぼう」にしている[29]。夕刊フジに筒井が連載していたエッセイ「狂気の沙汰も金次第」のイラストを山藤が担当した時より続いている。

真鍋博 - 山藤同様に筒井の作品の挿絵や表紙絵を手掛けたイラストレーター。『富豪刑事』の挿絵や、『朝のガスパール』の挿絵・表紙絵等を手掛けた。

柳原良平 - イラストレーター。『あるいは酒でいっぱいの海』や『巨船 ベラス・レトラス』の表紙絵を手掛けた。

しりあがり寿 - 漫画家。短編集『傾いた世界』と『最後の喫煙者』(いずれも新潮文庫)のカバーイラストを手掛けた。

小松左京 - 長年の友人のSF作家。筒井の結婚の仲人でもある。

大江健三郎 - 長年の友人の作家の一人。筒井は1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている[30]。

井上ひさし - 長年の友人の作家の一人。筒井が1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている[30]。

中上健次 - 長年の友人の作家の一人。

星新一 - 長年の友人のSF作家。SF作家たちの飲み会で星が放つ、奇想天外な馬鹿話は、筒井に大きな影響を与えた。また、『日本沈没』のヒットを祝うSF作家たちの集まりで、星新一は「『日本以外全部沈没』なんて題名もいいんじゃない?」と題名を考案。小松左京の許可を得て筒井康隆は『日本以外全部沈没』を執筆した。なお最相葉月による評伝「星新一」によると、星は、自分のブラック・ジョークに影響されて、自分より文学的に評価されていく筒井のことを、嫉妬していたという。

平井和正、豊田有恒 - 筒井より4歳年下のSF作家。二人とも筒井より先に「SFマガジン」に登場し、筒井を悔しがらせた。筒井が上京して原宿に住んだばかりの頃は、3日とあけず、3人で会うほど親密だった。

河野典生 - ハードボイルド、SF作家。ジャズ愛好、山下トリオのファンという共通点があり、一時は親密な関係だった。

堀晃 - ハードSF作家。関西在住で筒井も目をかけ、山下トリオにも筒井が紹介し、交流がある。また、1973年の筒井の傑作短編「熊の木本線」に登場する架空の民謡「熊の木節」について、作曲し振り付けを考えて、筒井ファンの前で披露した。下記「JALInet」の発起人の一人。

かんべむさし -過激なギャグSFを書く作家として、「筒井の後継者」とみなされたこともある作家。上記堀晃とも仲がよく、やはり筒井が山下トリオに紹介している。

小林恭二 -第一回三島由紀夫賞選考会で、筒井は小林の作品を高く評価しておした(受賞は高橋源一郎)。その後、筒井、小林、堀、薄井ゆうじ、佐藤亜紀の5名で、「JALInet」(JAPAN LITERATURE net)を、発起人として立ち上げた。

小林信彦 -筒井同様にマルクス兄弟を愛好する作家。互いの作品をリスペクトしていた。小林のパロディ小説『唐獅子株式会社』の文庫版解説に、筒井は詳細な元ネタの注を書いた。筒井は1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている[30]。また、小林は筒井の短編「五郎八航空」を「ギャグだけで出来ている小説」として高く評価している。

色川武大 -小林同様に、笑芸愛好、映画愛好と共通の趣味を持ち、互いの作品をリスペクトしていた。色川は「SF作家にならなくてよかった。なったら筒井康隆の亜流になっただろう」と、発言している。小林も含めた3人で、フィルムセンターにて、戦前のエノケン映画などを一緒に見たこともある。また、色川の膨大なビデオ・コレクションから、借り出しもうけた。また『不良少年の映画史』の解説も色川が担当。筒井は色川への追悼文で、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人だとし、その中でも特に色川が、「不良少年期、映画、ジャズ、狂気への傾斜、夢へのこだわり」と、もっとも共通点が多い作家であり、「5歳上の兄貴のような存在だった」と書いている[30]。

長部日出雄 - 長部が「週刊読売」に勤務していた時代からのつきあい。筒井は1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている[30]。

山下洋輔 - 過激なフリー・ジャズのピアニストにてエッセイスト。筒井とは互いの作品のファンであり、長年の親交。筒井関係のイベントや筒井作品の映画化時などで、音楽を担当している。また、山下が結成した「全日本冷し中華愛好会」の二代目会長の座を、筒井に譲った。

タモリ - テレビ司会者・タレント。山下洋輔を通じて、親交を深める。

ハイヒールリンゴ・ハイヒールモモコ - 女流漫才コンビ。筒井の出演番組『ビーバップ!ハイヒール』の司会者。

江川達也 - 漫画家。筒井同様『ホリプロ』の所属。『ビーバップ!ハイヒール』で共演。

たむらけんじ - 焼肉店『炭火焼肉たむら』を経営しているピン芸人。『ビーバップ!ハイヒール』で共演。

ブラックマヨネーズ・チュートリアル - 漫才コンビ。『ビーバップ!ハイヒール』で共演。たむらと異なり、週代わりでの出演。

平岡正明 - 筒井康隆論を多数執筆。親交も厚い。

内藤誠 - 映画監督及び評論家。筒井ファンで、筒井作品を何作も映画化している。ただし、筒井ファンゆえのせいか、筒井の原作の台詞をそのまま使用している場合が多いが、筒井作品内のセリフは多くが、筒井が芝居青年だった時代の「新劇」のノリを踏襲しており、映画としては「わざとくさく感じてしまう」もので、いずれも成功作とはいえなかった。また、映画評論家の佐藤重臣が伝説の上映会「黙壷子(もっこす)フィルムアーカイブ」で使用していたと思われる、映画「フリークス」のフィルムと16ミリの映写機を、内藤の紹介で筒井は買い取り、現在も保有している。

渡部直己 - 文芸評論家。かつては熱狂的な筒井ファンであったが、『虚航船団』に失望して批判したところ、筒井に反撃され、以降、犬猿の仲となった(著書『HELLO GOOD-BY 筒井康隆』に、誉貶、双方の文章が収録されている)。

高橋留美子 - 漫画家。若い頃からの筒井ファン。高橋の『うる星やつら』の1シーンに、本棚に収められた筒井の作品群が描かれている。また、1984年公開のアニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のパンフレットには、『あるいは夢でいっぱいの海』(『あるいは酒でいっぱいの海』)、『時をかけるあたる』(『時をかける少女』)等の筒井作品のパロディが掲載されている。

岡留安則 - 『噂の眞相』編集長。筒井に熱心に連載を持ちかけ、原稿料は筒井の言い値を呑んだ。『笑犬樓よりの眺望』連載第1回目で、筒井に「秘密の暴露をたくらむ者は常にわが身に及ぶ災害を覚悟せよ」との考えで、原稿料は原稿用紙1枚1万円(連載開始当時)と暴露された。筒井から「(噂眞での)連載はいつまで続けたらよいのか?」と訊かれた際、岡留は「お前(筒井)が死ぬか、『噂眞』が休・廃刊になるまでかのどちらかだ。それまではがんばれ。そのために破格の原稿料を払っているのだ」と答えている[31]。また、岡留は『笑犬樓よりの眺望』文庫版巻末の解説で(1996年当時)断筆を続けている筒井に対し「『噂眞』での連載再開はいつでもOK。金額の問題ではないが原稿用紙1枚あたり20,000~30,000円の原稿料を出してもいい」と連載再開の秋波を送っている。

堀威夫 - ホリプロ会長。筒井にマネジメント契約を持ちかけた。当初、堀は筒井と文化人部門での契約の方針だったが、筒井の強い要望でタレント部門でのマネジメント契約となった。これはホリプロの文化人部門に栗本慎一郎がおり、筒井が栗本の下に入るのを快く思っていなかったためである[32]。

ベティ・ブープ - 彼女を「わが最愛の女優」と評し、評伝を書いている。筒井は彼女のファンでもあり、劇場用アニメフィルムを、ほぼコンプリートでコレクションしている。





【外部リンク】



筒井康隆 - 公式サイト → http://www.jali.or.jp/tti/



JAPAN LITERATURE Net → http://www.jali.or.jp/index2.html



笑犬楼大通り 2008年(平成20年)6月24日オープン[1]。→ http://shokenro.jp/shokenro/



Go smoking - 筒井が喫煙に対して「特別寄稿」を寄せている。→ http://www.go-smoking.net/special/index.html



特別インタビュー筒井康隆の紫福談 ま、今日も笑って一服 - 愛煙家通信Web版・喫煙文化研究会 → http://aienka.jp/articles/004/













【喜伝会会長のコメント】



◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!



◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・筒井康隆が新刊『創作の極意と掟』(講談社)で、若い書き手らに向け、すべきこととやってはいけないことをユーモアを交えて説いていること。

 ・・・筒井康隆がホリプロ所属であること。

 ・・・筒井康隆が小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも称されること。

 ・・・筒井康隆が学生時代、手塚治虫に熱中し、赤塚不二夫や藤子不二雄などとともに『漫画少年』誌の投稿欄の常連だったこと。

 ・・・筒井康隆が1959年(昭和34年)12月に創刊された雑誌『SFマガジン』を読み衝撃を受け、1960年(昭和35年)6月、ボーナスをつぎ込んでSF同人誌『NULL』を創刊したこと。

 ・・・1993年(平成5年)、角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった筒井康隆の『無人警察』内の癲癇の記述が差別的であるとして、日本てんかん協会から抗議を受け、数度交渉を行ったのちに決裂(後、筒井個人と団体間で解決)したこと。

 ・・・筒井康隆は愛煙家であることから、近年の「禁煙ファシズム」を批判し、愛煙家団体「Go smoking」に参加していること。

 ・・・筒井康隆の関連人物に、タモリ、ハイヒールリンゴ・ハイヒールモモコ、色川武大、江川達也、たむらけんじ、ブラックマヨネーズ・チュートリアル、高橋留美子、堀威夫、ベティ・ブープがいること。







◆喜伝会会長のコメント

 ・・・星進一を読み切った後、読み始めたのが筒井康隆、特に、「俗物図鑑」が好きだった。

 ・・・いろいろと苦労されているは全く知らなかった。久しぶりに、読んでいない筒井康隆ワールドを覗いてみたくなった!













【おすすめリンク】



◆喜伝会公式サイト

→ http://ameblo.jp/satoru-nadaguchi/



◆服部幸應のおすすめお取り寄せ&ミシュラン東京掲載店のおすすめギフト&二つ星レストランのおすすめ格安ディナー

→ http://michelinranking.blog.fc2.com/












★大阪喫茶はまゆうの長男濱口優と松尾伴内の縁戚南明奈が真剣交際!【喜伝会おすすめニュース】

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★大阪喫茶はまゆうの長男濱口優と松尾伴内の縁戚南明奈が真剣交際!【喜伝会おすすめニュース】







《続報》アッキーナが交際宣言やったどー!(02/27 11:17)



 お笑いコンビ「よゐこ」の濱口優(42)との真剣交際を報じられたタレントの南明奈(24)が27日、公式ブログで“交際宣言”した。まるで事前にタイマー・セットしていたかのように、「05:00:30」(午前5時30秒)に更新。「ご報告」のタイトルで、「朝早くすみません。南明奈です!新聞、雑誌、TV等でニュースになっているお話しですが、私、南明奈は、よゐこの濱口優さんとお付き合いをさせていただいてます」と交際宣言。「今後もお仕事も全力で頑張りますのでよろしくお願いします!」と誓った。並行して事務所のHPでも、ファンやマスコミに向けてメッセージ。「弊社といたしましては南明奈本人からもそのような報告を受けております。南ももう大人ですのでプライベートなことは全て本人に任せております。今後とも温かく見守っていただければと思います」と“大人扱い”を強調している。





「濱口優」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E5%84%AA







【濱口 優(はまぐち まさる、1972年1月29日 - )】は、日本のお笑いタレント、俳優。お笑いコンビよゐこのとまどい(ボケでもツッコミでもない)担当、相方は有野晋哉。愛称はぐっちょん(グッチョン)、ハマグチェ、マサルさん、マッサルなど。



三重県志摩市出身。中学校在学中大阪市此花区に転居。松竹芸能所属。大王町立波切小学校(三重県志摩市)、大王町立波切中学校→大阪市立春日出中学校、大阪市立汎愛高等学校卒業。血液型はA型。星座はみずがめ座。





【プロフィール】



当初のコンビ名は「なめくぢ」。よゐこはシュール芸が持ち味のコントを主体としたコンビで、有野がボケ役、濱口が「とまどい(ツッコミ)」役だったが次第に濱口の天然キャラが前面に出て、「ボケ役」と誤認されるようになった。最近はB1角座の正月興行などの劇場出番では漫才形式のネタを披露することもある。

家族構成は祖母、父、母、弟2人。小学校時代まで三重県志摩市に住み、現在の実家は大阪市内にある、喫茶・軽食「はまゆう」。祖父は漁師、祖母は海女。上の弟は演劇俳優の濱口秀二で、KBS京都の「谷口な夜」などKBSローカル深夜番組に出演していることが一部で有名。末弟はタロット占い師の濱口善幸で、兄・優がメインMCを務める「イツザイS」(テレビ東京)に2010年1月からレギュラー出演していた。

『いきなり!黄金伝説。』内では、占い師から相方、有野晋哉と組んでいなかったら今では死んでいると言われていたことを明かしている。しかしこれは有野を芸人にさせるため濱口が占い師に言わせたものらしい。

子供からだいぶ好かれている。過去にディズニータイムで「ゲストに来てもらいたい芸能人」を募った所、濱口が圧倒的多数で子供から支持されていたためそのままMCに起用された。またディズニー好きでもあり、『よゐことくばん』ではリサイクルショップでディズニーグッズを探して自腹で買っている。

キャラに反して雨男であることを『ウルルの森の物語』のメイキング映像内で語っている。

有野と同じくタバコ嫌いである。お酒もほとんど飲めない。

家ではスカパーのアダルトチャンネルを見るか、TVゲームをしている。濱口も相方の有野に負けず劣らずのゲーマーである。

チワワの「ハル(オス)」という名前の犬を飼っている。太った犬で、犬のしつけの一つである「お手」は、濱口は「握手」と言う(年越し生放送!よゐこ祭り2部より)。

高校生時代は「クリ」と呼ばれていたらしい[1]。

裸エプロンが大好きで、自分の携帯電話の待ち受け画面が裸エプロンをする自分である。それを撮影したのは、相方の有野。(2012年現在)

裸エプロンを着るのがとにかく大好きで、湾岸スタジオで裸エプロンでレッドブルを買う濱口が見かけられるほど。それを、バナナマンとオードリーのマネージャー(ともに女性)に見られた。そして、ケンドーコバヤシにも見られ「心配しなくて良いですか?」と声をかけられた事がある。その後レッドブルを飲んで「格別やわ!!」と言った。

裸エプロンでジャンプが10回できる。

上記「裸エプロン」の話はフジテレビのCS放送の番組"よゐこの企画案#16"で、よゐこ本人達が書き込み、書き込んだ事を実行したものである。

キャイ~ンのウド鈴木とはクリスマスイヴに二人で過ごしたり二人旅に行くほど仲が良い[2]。

子供の頃は甘えん坊で、3歳まで乳離れが出来なかった[2] 。



【活動】



◆ジャイアント将棋



『ラスタとんねるず'94』(フジテレビ系)のジャイアント将棋でメジャーデビューを果たす。アンディ・フグや渡辺二郎等といった現役・引退した格闘家の中で芸人枠で活動した。



◆ドーバー海峡



『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系)の企画『ドーバー海峡横断部』では、レギュラー陣と共に遠泳を訓練。初めは、クロールで息継ぎができないという致命的な欠点があったが、練習を繰り返し、部のエースにまでのし上がった。泳ぎも非常に早く、ドーバー海峡横断を昔から見てきた船の船長に褒められるほどである。ドーバー海峡を水泳で泳ぎ切り、横断した記録を持つ(この経験が後の素潜りへと生かされる)。



◆節約バトル



『いきなり!黄金伝説。』(テレビ朝日系)の『芸能人節約バトル・1ヶ月1万円生活』には頻繁に登場し、レギュラーとなっている。

当初は吉野家やマクドナルド等で外食というコーナーの趣旨を無視した反則技を取っていたが、次第にスズメバチの巣を丸ごと捕獲し家に持ち帰り天ぷらにする、公園の噴水で洗髪する、など一般人には到底真似出来ないサバイバル振りを発揮している。

海中での素潜りや魚捕りが非常に得意で、ウツボやサメ、コロダイ等大物の魚を仕留めている。

この『節約バトル』で濱口が“開催”する『男の節約料理』でも、一種天才的且つ豪放磊落な料理のセンスを見せ、爆笑を誘う。ただし、濱口の料理には費用がかなりかかっていることも多い。下記のように無計画に1ヶ月1万円生活を行っていることから、番組では10回の挑戦で優勝は1度のみ。

例:ケチャップ丸ごと1本、カキ氷シロップブルーハワイ丸ごと1本、黒ゴマ丸ごと1袋を使ったおそらく世界初の三色豆腐を作っていたが300円以上かかってしまっている。だいたい濱口の普通の料理(魚を使った料理を除く)の平均額は150円-300円程度、これは他の挑戦者の平均額70円 - 100円に比べて非常に高額である。また、公衆電話で10円を使い有野に電話したことがある。

7回目の挑戦となった2005年春の節約バトルでは「優勝したら節約バトルを卒業する」と宣言し、主に餅を使った節約術で健闘するが、季節的に海には中盤の5日間しか行けなかったこと、食材の無駄遣いが影響したか、8円及ばず清水よし子に敗北し2位となる。

それから半年後、8回目の挑戦となった2005年秋の節約バトルで、ほとんど大豆のみを使った料理を約2週間食べ続け10kgもの減量を果たしたことが、司会の遠藤章造によって明らかにされている。。ダイエットが目的ではなかったものの、顔がデビュー当時の様に細くなり、また大豆のおかげか肌がツルツルになったことで若返ったと評判になっている。しかし、この時は夏の海でサメを捕る等奮闘するも、序盤で上記の三色豆腐等で浪費してしまい、追加ルールの「20日目の時点で残金が最下位(4位)になった参加者は脱落」[3]によって20日目でリタイアとなった。

2006年4月6日に放送された『いきなり!黄金伝説』の『無人島0円生活』では相方の有野晋哉にも素潜りをさせた。

その他は、同番組の企画でゴミで出来たゴミ屋敷の周辺環境を救うべく、屋敷住人への説得から処分、家のリフォームまで自力で行うドキュメント企画を敢行した。頑固だった住人も濱口に全幅の信頼を置き、二度とゴミを溜めないと誓うまでになった。

小麦粉をチネる(指で千切る)作業の時に、料理の大変さを痛感したと語っている。相方の有野はこの作業が上手であり、濱口に「チネラー」と呼ばれる。

「節約バトル」では常にメス鶏の「しゃくれ」と共に生活をする。濱口は時々「しゃっく」と呼んで可愛がったり産んだ卵を料理にして重宝している[4]が、「しゃくれ」へのエサ代も1万円生活の1万円から支出されるので節約に貢献しているとは言いにくい部分もある。また、初期は節約バトル中に有野と喧嘩別れした際に、有野が「大家さん、この部屋鶏飼ってますよー」と叫び濱口がそれを否定するという流れがお約束になっていた。

「節約バトル」での高評価はギャラにも反映された。有野曰く「濱口のギャラ(年収)は俺の3倍」。有野は番組の中でグチをこぼしていた。その後有野が『ゲームセンターCX』で売れてからは立場が平等である。

非常に料理に費用がかかっていることは前述したが、その分光熱費は他の挑戦者と比べて安いことがほとんどである。だが、過去にカレーを何時間もブツブツ言いながら煮込み、他の挑戦者に比べ莫大な光熱費を徴収されたこともある。

2009年2月5日放送はテレビ朝日開局50周年記念の『50時間テレビ』内の特番であり、濱口にとっては通算10回目の挑戦であった。この回では15日目の時点で1位の友近に1000円以上差をつけられるものの、初日に作ったおでんの作り置きで10回目にして見事7年越し悲願の初優勝を果たした。珍しく海へは行かなかった(漁に行かなかっただけで、別の伝説を一緒に行ったつるの剛士と海釣りに1回行ったが釣果は乏しかった)が、銀杏や野草といった0円食材を入手した。



◆「獲ったど~!!」



『節約バトル』や『よゐこの無人島0円生活』などで、タコ等の魚介類を海で捕獲した時に吠える「獲ったど~!!」の絶叫パフォーマンスで子供達にも大人気を博す。また、海を前に「ウラ~ラ~ラ~ラ~」と叫ぶ元ネタは『キン肉マン』の超人・ジェロニモ。

ちなみに、『もしもツアーズ』でゲスト出演した時も、サービス心から「獲ったど~!!」と言ったことがある。

『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ オマケの都ショックガーン!』では漁師モードの濱口・船上の有野からペンギン姿の野原しんのすけが逃げるというミニゲームがあり、失敗(濱口に捕まる)した場合、「獲ったど~!!」のフルボイスがある。さらに『クレヨンしんちゃん』のスペシャルで本人役として出演した際、川に落ちた後、魚をつかんだ際も「獲ったど~!!」と発言。これに対ししんのすけは「おおっ、1ヶ月1万円生活。」と突っ込んでいた。

他のサバイバル生活の企画においても、挑戦者が獲物を捕まえた際に「獲ったど~!!」と叫ぶことから、サバイバル生活におけるお約束セリフとして浸透している。



◆キング・オブ・バカ



『めちゃ2イケてるッ!』(フジテレビ系)では数々のドッキリ企画の罠にあっさりとハマった(濱口だましシリーズを参照)。これはお笑い芸人としての武器の一つになり、以来「バカのプロ」として、さまざまな場面でそのキャラクターを遺憾なく発揮している。

『めちゃイケ』ではこの他、『抜き打ちテスト』で答案用紙の名前欄に自分の名前をローマ字で「hamaguche」(ハマグチェ)と誤記したり、最終成績で連続最下位を達成するなど、随所に一種の天才的なセンスを見せる。番組内でも、濱口を大学へ入学させる企画を組んだが入学試験で失敗したので番組で「架空の大学(桐堂大学 - 連続で言うと『ドッキリ』となる)」を偽造。そこへ合格したと偽り、ニセの入学式を行わせるドッキリ企画を行った。

その受験勉強の成果で得意科目の理科は点が取れるようになったが、プロジェクトの終了後の年末に行った「年末ジャンボバカ」では、山本圭一の前で余裕を見せていたものの結局最下位となった。その後、遂にははなわにより「バカグッチョン」と言われているが、これらについて本人は完全に開き直っており、一種の大物ぶりを見せている。

また、『めちゃイケ』ではスペシャルで『濱口だましシリーズ』として放送されている。ナインティナインや極楽とんぼ等の『めちゃイケ』メンバーや松竹芸能の先輩・後輩芸人、さらには松竹芸能社長の安倍彰が仕掛け役となって、濱口を騙しているが、毎回岡村からドッキリであることを告げられるまで騙されていることに気付かない。

以上のことから、よく小学生から馬鹿にされており、2005年に雑誌『小学六年生』(小学館)と『Yahoo!キッズ』によるアンケートで『頭の悪い芸能人』1位に、2006年『小学六年生』では『宿題を忘れそうな芸能人』第1位に選ばれた。

なお、子供達からの評判はかなり良く、たまにファンの小学生等から「休憩の時にジュースでも飲んでください」と書かれた手紙とともに小銭が送られてくることもある(『いきなり!黄金伝説。』の活動などにより)。

2006年10月7日放送のスペシャルで実施された「WBC(ワールド・バカ・クラシック)」においては、散々減らず口を叩いておきながら、梨花(「ウルトラのバカ」)、辻希美(「バカ女(じょ)」)、若槻千夏(「バカまん」)に3点差で敗北。理科では有野、麻木久仁子に続くクラス3位の79点を取ったが、英語の22点を始め他3教科が40点台だったため焼け石に水となり、またしても最下位となり5連敗を達成した。さらに英語の解答用紙では、またも名前を「masaru hamagucht(マサル・ハマグフィト)」(佐野瑞樹アナ曰くchtはドイツ語に近いとのこと)と間違えるという単純ミス(場外ホームラン)を犯した。

有野曰く、「濱口の馬鹿は日常生活に支障を来す程」とのことで、『踊る!さんま御殿!!』等でその実例が語られている。

また有野によれば、かつて学生時代数学のテストで0点を避けるために「一つくらい答えが「2」になるものがあるだろう」と考えて、全ての回答欄に「2」と記入し6点(100点満点中)を取ったことがあるという。この作戦は『めちゃイケ』の各企画でも試みており、抜き打ちテストの数学では18点、大学入試企画にて行った代々木ゼミナールの模擬試験における化学では8点(100点満点中)を取っている(「2」の他に「22」という解答も散見された)。

2010年2月15日放送の『お試しかっ!&Qさま!!合体スペシャル』では「プレッシャーSTUDY」への出入り禁止処分が下され、「帰れま10」に一人で挑戦することになった。

しかし、2011年10月8日放送の『めちゃイケSP』の「国民栄誉バカ」では、東京スカイバカ・重盛さと美に勝利、遂に6連敗を免れた(11年間守り続けた最下位脱出と相成った。同時に、重盛は2冠を達成)。しかしながら得意の理科で後藤淳平(ジャルジャル)に次ぐ80点と好成績を残しながらも、他4教科は国語(51点)を除き軒並み50点未満という成績で、最終成績における重盛との点数差は僅か2点だった。

名前の間違いは小学生の頃からで、2012年4月22日放送の『ウチくる!?』において小4の頃の文集を紹介、名前を「はまぐまさる」と間違えて書いていた事が判明する。



◆ダブルレッテル&女性関係



主に『めちゃイケ』の『恋のかま騒ぎ』『やべっち寿司』等のコーナーでは「アダルトビデオを観るために50インチのプラズマテレビを購入した」「高級マンションに引っ越した理由が浴槽がガラス張りで部屋から透けて見えて興奮するから」「女性ゲストは必ず頭の中で素っ裸にしてみる」といった性癖を豪快に明かしている。本人によると、スカパーの3チャンネルが見放題の有料アダルトチャンネル(加入しているチャンネルはチェリーボムセットと推測される)をよく見ているとのこと。

2006年7月21日に終了したTBSラジオ『極楽とんぼの吠え魂』では「クソ太郎」と称した濱口が毎月「おチョコ」を食べたい女性タレントをランキングするというコーナーを担当。好評を博しており現在は『加藤浩次の吠え魂』にて不定期に行われている。

極楽とんぼの加藤浩次は濱口の性癖傾向に対して「あいつが本当にクソ食ったら絶縁」と公言している。実際は「食べたいくらい好き」という意味で言っているので本当に食べることはない。

MBSラジオ『オレたちやってま~す』の4期からパーソナリティを有賀さつき、藤井隆、大森玲子と共に開始(11期まで)。

5期から8期まで共にパーソナリティを務めた椎名へきるに生放送の本番中に告白したことがある。椎名は中学生的下ネタを発するよゐこにブレーキを掛ける文字通りのお姉さん的存在だった。

『とぶくすり』で共演した本田みずほと付き合っていたことは有名だったが、1995年、写真週刊誌『FOCUS』8月9日号(新潮社)にデート現場をスクープされたことをきっかけに破局。その影響か、本田は『めちゃイケ』にはレギュラー出演できなかった。しかし2006年11月18日放送の『めちゃイケ』に濱口の元彼女として登場し、本田は2006年6月に東京大学卒の学歴を持つ一般人と結婚したことを発表した。

2006年8月24日発売の週刊誌『女性セブン』(小学館)が小倉優子とのデート現場をスクープ、深夜に小倉の愛犬を連れて濱口の自宅近くで散歩を楽しむ二人の後ろ姿が掲載された。小倉の所属事務所は「ノーコメント」としたが、濱口の所属事務所はこの日、「いいお友達の一人としてお付き合いしています」とコメント。二人の出会いは2002年頃で、その後濱口が仕事で一緒になる度に話しかける等アタックし、約1年程前から交際するようになったと言う。また、以前濱口が小倉が「こりん星」から来たという元ネタになった椎名へきるに告白している。また、この件が『アッコにおまかせ!』で取り上げられた時、濱口は「親しいお友達の一人としてお付き合いしています」と、所属事務所の発表通りの発言をした(2006年9月10日放送分)。以降トークでこの話題が出た時は、他の出演者に話を振られる度に動揺している。

かつて女性と交際していた時、仕事に向かう際に「私と仕事、どっち取るの?」と言われて彼女を取り、生放送に遅刻したことがある。

仕事中のスタジオでも電源を入れた携帯電話を持ちこんだことがあり、有野からは「ケータイ持ってきてるってことは、お前、さては彼女がいるな!?」とツッコまれたことがある。

以前に、星空を二人で眺めていて星空が綺麗なことを彼女が言うと「それなら取って来たるわ」と言って思いっきり手を伸ばし、「届かないから無理よ」と言った彼女に「取れたで」と言って指輪をプレゼントしたというロマンチックなエピソードがある。

2010年4月2日に女優の倉科カナと2008年から交際していると報じられた。その後、2011年末頃に約3年半の交際を終えたと、2012年3月に報道されている。



◆濱口スタイル



『内村プロデュース』(テレビ朝日系)に出演した際、「もしもブティックの試着室に便器があったら?」というシチュエーションコントで、濱口は下半身裸になり、便器の上に逆立ちして「たすけてー!!」と絶叫。「内Pに何かを残したかった」と満足顔の濱口をよそに、共演者はあまりのインパクトに絶句。後にこのパフォーマンスは誰からともなく「濱口スタイル」と名付けられ、『内P』では後に品川祐やバナナマンも敢行した。



なお、この「濱口スタイル」は2008年に発売されたDVD「内村プロデュース~発酵紀」にも収録されている。



◆キン肉マン



『キン肉マン』が好きで、『キン肉マン二世』では「ステップマン」という超人をデザインし、本編で採用され悪行超人を応援した。しかし、ライトニング&サンダーにあっけなく2ページで破壊される[5]。キン肉マンに対する思い入れは強く、上京する際はキン肉マン消しゴムだけ持っていったほどである。



また、ナインティナイン・岡村隆史がMCを務める生配信トーク番組『めちゃ×2ユルんでるッ!』の特別企画「めちゃ×2なが~くユルんでるッ! ~43番ロビンマスクは地球を救う!!~」内のコーナー「早朝アイドル水泳大会」では岡村扮する「43番ロビンマスク」と共に自身も「ラーメンかむくらマン」としてマスクを被り登場し、ロビンマスク vs ラーメンかむくらマンの水泳自由形対決を行った。



◆はまぐち(濱口)コントサークル



2012年頃から、「サークル活動のように気軽にコントをやってみよう」という狙いで、同僚芸人を率いてライブやテレビ(初詣!爆笑ヒットパレード、日10☆演芸パレード)でコントを披露している。





【外部リンク】



松竹芸能 よゐこオフィシャルサイト 415号室 → http://415yoiko.jp/



松竹芸能株式会社 - タレント一覧:よゐこ - 事務所によるプロフィール → http://www.shochikugeino.co.jp/talents/01/post-15.html











「南明奈」も Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E5%84%AA









【南 明奈(みなみ あきな、1989年5月15日 - )】は、日本のグラビアアイドル、タレント、愛称はアッキーナ。



神奈川県横浜市生まれ[1]、横浜市育ち[2]。フリースタイルカンパニー所属。





【経歴】



2001年、小学校6年生の夏休みに原宿で母親と買い物をしている際にオスカープロモーションにスカウトされる。その後、レッスン期間などを経て中学校2年生の終わり頃から主婦の友社のティーンファッション誌『Hana*chu→』のモデルとして活動。この際に現行の愛称「アッキーナ」をスタッフから名付けられる。

2006年2月10日、1st写真集・1stDVDをリリース。これに前後して本格的にグラビア雑誌に登場するようになる。

2006年4月4日、フジテレビ『めざましテレビ』のコーナー「早耳トレンドNo.1」に初登場。以降、「早耳ムスメ」として出演する。

2006年8月20日に2ndDVDを、9月25日には2nd写真集を発表。さらに10月2日には『めざましテレビ』のコーナー「今日の占いカウントダウンハイパー」のキャラクターに起用される。

2006年、『Hana*chu→』のモデルを卒業し、同じ出版社のギャル系ファッション雑誌『Cawaii!』へ活動の場を移す。

2007年9月、フリースタイルカンパニーに移籍(マネージャーとともにオスカーより独立)。これに伴い公式サイト、ブログが一部リニューアルされ、オスカーでの表記は削除された。また、従来はグラビア中心の活動であったが、独立後はトーク番組やバラエティ番組、ドラマやCMなどにも積極的に出演している。

2008年3月、日出高等学校卒業。

2008年3月3日、第45回ゴールデン・アロー賞「グラフ賞」を受賞。

2008年5月、フジテレビの深夜バラエティ番組『~ジョーデキ!POP COMPANY~POP屋』にて秋山莉奈、小阪由佳と三人で口パクアイドルユニット「Peachy's」を結成。

2008年9月29日から2010年9月30日まで、フジテレビのバラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』の月曜日レギュラー(2009年10月8日より木曜日レギュラー)に抜擢された。平成生まれのレギュラーは南が番組史上初。

2009年2月、フジテレビのクイズバラエティ番組『クイズ!ヘキサゴンII』にてローラーブレードチーム「南明奈のスーパーマイルドセブン」を結成(詳しくは後述参照)。

2009年7月13日、ZAKZAKの「第2回日本グラビアアイドル大賞」を受賞する。



【人物】



◆家族・愛称



ペットは犬2匹(ミニチュアダックスフントの「れお」、トイ・プードルの「ちびくろ」)と猫1匹(ノルウェージャンフォレストキャットの「パール」)。



愛称「アッキーナ」を名付けたのは『Hana*chu→』編集部のスタッフで、モデルの愛称を一人一人決める時に「響きが外国人っぽいし、いいんじゃない?」と簡単に決められたため、当時はダサいと思って気に入らなかった[3]。『めざましテレビ』の「早耳トレンドNo.1」コーナーではVTR中、早耳ムスメがナレーターに下の名前で「○○ちゃん」と呼ばれるのが慣例だが、南の場合はそのまま「アッキーナ」と呼ばれた。『はねるのトびら』では必ずミユッキーナこと井森美幸のコンビでゲスト出演している。また、木下優樹菜が対抗して「ユッキーナ」を自称したり、元木大介が「モッキーナ」、吉田明世(TBSアナウンサー)が「アッキーヨ」と呼ばれたりするなど幅広く浸透しており、本人も「『南さん』と呼ばれるより『アッキーナ』と呼ばれる方がしっくりくる」と話している。



なお、お笑い芸人の松尾伴内とは、縁戚関係にある。



◆趣味・特技・性格



趣味はメール、音楽鑑賞、事務用品・香水・帽子の収集。



特技は和太鼓[4]、裁縫。



漫画好きでもあり、小学生時代は漫画家を目指していたこともあり、『りぼん』(集英社)の読者コーナーにイラストを投稿したこともある。結果的に画力が上がらず断念したが、「サキよみジャンBANG!」内のコーナーでは特徴を捕えたわかりやすい絵を描いている。



一匹狼的な性格で、高校時代も他の人と群れて移動するのを嫌っていた[5]。現在でも他のアイドルと交流することは少なく、空き時間では芸人などと会話する方が多いと語っている[6]。特にジャンBANGで共演するアメリカザリガニ・ヒカリゴケなどの松竹芸能所属の芸人と交流することが多く、アメザリとは地方のトークショーなど他の仕事で共演する際も「安心する」と信頼している。



絶叫マシンが大好きな一方、お化けや心霊現象が大の苦手。ロケでお化け屋敷に入ったときや、ドッキリでお化けが出てきたときのどちらもパニックを引き起こしていた。



トヨタ・ヴォクシーとトライクを所有している。トライクは26時間テレビ・三輪車耐久レース優勝のご褒美として購入し、現在はさらにLEDやブラックライトを搭載した改造仕様にしている[7]。



好きな食べ物は、プリン、焼肉(ただし『とんねるずのみなさんのおかげでした』「新・食わず嫌い王決定戦」出演時点では牛タンが苦手だったが、現在は克服。)、もやし、サーモン、オムライス、シチュー、クレープ、菓子、チュロス。寿司屋に行ったときは必ずサーモンを10貫以上頼む。またコーラを始めとする大の炭酸好き。



普通の飲料水・水道水が嫌いで長らく飲んでいない。(『堂本剛の正直しんどい』(2008年11月19日放送分)にて10年ぶりに飲むなど企画や仕事では飲むことがある)。お茶・コーヒーなど「味のない水」に関しても苦手だったが現在は克服している。また、水嫌いに影響してかお酒もカクテル系は飲めず、ウイスキーや芋焼酎のロックのみ飲めるようである[8]。



幼稚園から中学3年まで英会話学校に通っていたことがあり、英語が得意と自称している。また漢字の読みが得意であり、漢検5級(小学校6年生修了程度)を所持している[9]。



プロ野球は読売ジャイアンツファンだったが、栗山英樹監督にバースデープレゼントを贈与したことにより、日ハムファンに鞍替えした。



ゲーマーであり、2010年時点で現行ハードを全て所持し、所持本数1,000本以上、つぎ込んだ金額はハード・ソフト込みで最低でも110万円を超える。特に『メタルギアソリッド』や『龍が如く』といったバイオレンス系ゲームを好み、南が『メタルギアソリッド3』を何度もクリアしているシリーズのファンだという話が監督の小島秀夫に伝わり、『メタルギアソリッド4』には自身のポスターが登場している。また、『喧嘩番長』シリーズをプレーしている縁で、スパイクから発売されているゲーム(『喧嘩番長』シリーズ・『ガチトラ!』など)のCMにも出演している。



長くショートカットで髪の上だけを束ねる「噴水ヘアー」をトレードマークとしていたが、2009年7月頃から噴水ヘアーをやめ、髪色も茶髪にし、パーマをかけ始めた。本人は「最初は好きだったが後半はやめたくなった。だけど事務所が『トレードマークだから』と変えさせてくれなかった」と話している[10]。



元々モーニング娘。に憧れて芸能界入りしたため、歌や踊りを行う本格的アイドルユニットに憧れており[11]、現在でもAKB48の渡辺麻友やももいろクローバーZのファンであることを公言しており、ももクロに関しては人生で初めてファンクラブに入ったことを明かしている。



◆カート関連



レーシングカートを始めとするスピード系スポーツも好んでおり、現在ではプライベートでも休日にサーキットへ行き、マイスーツ・マイヘルメットでカートの練習を行っている。



1st写真集の撮影で訪れたタイにてカートで遊んだところ大クラッシュし鼻血を出したが、そのままカートで遊んだ。後の検査で鼻にヒビが入っていることが発覚したが、そのまま撮影を続行、しかし、あまりにも酷かった為に修正を加えたと本人が証言している。

『ヘキサゴン』の企画内で行われたカートレースではプロのレーシングドライバーの (2011年の全日本F3選手権Nクラス王者)千代勝正を上回るタイムを出して女性1位となった[12]。また、『サキよみ ジャンBANG』内のミニカートレースでも後ろから来るカートをブロックするなどのテクニックを見せて優勝した。

2011年10月1日に放送された『オールスター感謝祭』で実施した「赤坂カートグランプリ」では2回のマシントラブルによるリスタートがありながらも優勝した。その走りはコース監修とテクニック指導をした千代プロからもTwitterで「あの闘争心は是非とも見習いたいと思います」と評価された[13]。



オールスター感謝祭の反響は大きく、本人も「2ヶ月ぐらいは言われ続けた」と語っている[14]。また、カートグランプリ以後モータースポーツ関連のイベントにも登場している[14][15]ほか、2012年7月には事務所スタッフや助っ人として参加したプロレーサーとともにプライベートでカートレースに参戦した[16]。また、現在は国際A級ライセンスを取得している[17]。



また、極度の負けず嫌いで勝利への執着心が強く、テレビ番組の企画で行われるゲームやスポーツに挑戦する際には常に真剣勝負で挑んでおり、その結果好成績を残すことも多い。



2010年7月25日に放送されたFNS27局対抗!三輪車12時間耐久レース O-1 Grand Prix 2010では『ヘキサゴン』チームを日本一へと導き自分自身も嬉し泣きした。後日、南は「今まで『皆で頑張って試練を成し遂げる』経験がなく、昨年のレースを見て『来年は自分も出たい』と思ったために志願した」旨を語っている。

2011年7月26日に放送された2011FNSの日、「めちゃイケVSヘキサゴン」内での相撲対決では2回の取り直しの上勝利し顔面粉だらけになりながらも勝利を収めて男勝りのガッツポーズを見せた。また、2012年1月1日の「新春ヒットパレード」内でも相撲を行い、こちらは1回の取り直し後に勝利した。

『ヘキサゴン』の企画内で行われたボートレースにおいて参加メンバー中2位の記録を叩き出している。

ボートレースのイメージキャラクターは2010年から2013年まで4年間、担当してどのイロ、好きなの?等の名文句を出したが2013年の賞金王で卒業発表してファン等が衝撃を受けた。



その他にも巨大だるま落としで二段同時抜きを成功させたり、ミニキックターゲットを剛速球で宣言通りに射抜くなどの成果を出している。



◆クイズ!ヘキサゴンII



2008年1月30日放送分で初出演。その時は中位の成績だったものの、後の出演においてつるの剛士、野久保直樹、木下優樹菜、里田まい、上地雄輔、スザンヌの「おバカ6人組」全員に負け最下位となり、司会者に「日本の最下位」と評された。以降は番組の終了まで常連出演となり、他番組ではおバカタレントと扱われることが増える。



初登場時は司会者が南をひいきしたため木下が怒り、その際に木下は「ユッキーナ」と言ったため、ユッキーナがそのまま木下の愛称になった。また、元木大介も他の出演者から「モッキーナ」と言われたため愛称が決まった。



その後も男性出演者陣はなにかと南をひいき(「アッキーナは間違えてもかわいいから許す」など)しており、その対比としてmisonoなどがイジリの対象となることがある。が、2010年12月に行われた番組の忘年会にて酔い潰れ、ラサール石井に対し暴言を吐いてしまった(山田親太朗が証言)[18]。



ローラーブレード練習の努力が認められ、2008年12月より予定されていたローラーブレードチームに参加が決定。ユニット名も「南明奈のスーパーマイルドセブン」となりCDが発売された。2010年のヘキサゴンコンサートではさとう里香の代役として矢口真里とストローハットに参加していたが、2011年発売のヘキサゴンアルバムから正式メンバーとなった。



最終回を含めた出演回数は71回、予選ペーパーテスト最高順位は2010年6月30日放送分の10位、最高得点は2009年9月30日放送分の27点、最低得点は2008年7月9日放送分の6点である。



漢字や四字熟語などの国語問題や漫画問題での正解率は高い。



驚くとなぜか後ろにジャンプする傾向があり、番組では「秘技:猫ジャンプ」というテロップが表示されている。



◆その他



2008年10月6日、2回目の出演となる『笑っていいとも!』生放送の途中で退席。南は自身のブログで番組途中からの不在を謝罪したが退席の理由について説明はなかった。後日所属事務所から「持病の偏頭痛が出ていた上、生放送の緊張感が重なって番組を続けることができなくなり、急遽病院に向かった」と事情説明があった[19]。





【外部リンク】



南 明奈 official web site (2008年3月14日 - ) → http://fs-company.jp/akkina/



南明奈 オフィシャルブログ 「アッキーナBlog」 Powered by Ameba → http://ameblo.jp/akkinablog/



アッキーナblog (旧公式ブログ) → http://akkinablog.jugem.jp/











【喜伝会会長のコメント】



◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!



◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・濱口優と南明奈が真剣交際したこと。

 ・・・濱口優がよゐこのとまどい(ボケでもツッコミでもない)担当であったこと。

 ・・・濱口優の家族構成は祖母、父、母、弟2人で、現在の実家は大阪市内にある、喫茶・軽食「はまゆう」であること。

 ・・・濱口優が有野と同じくタバコ嫌いである。お酒もほとんど飲めないこと。

 ・・・濱口優がキャイ~ンのウド鈴木とはクリスマスイヴに二人で過ごしたり二人旅に行くほど仲が良いこと。

 ・・・南明奈(みなみあきな)が本名だったこと。

 ・・・南明奈が小学校6年生の夏休みに原宿で母親と買い物をしている際にオスカープロモーションにスカウトされていたこと。

 ・・・南明奈がお笑い芸人の松尾伴内とは、縁戚関係にあること。









◆喜伝会会長のコメント

 ・・・濱口優も南明奈も大好きなので、是非、結婚して欲しい!ウド鈴木も結婚したので、結婚も早いと思う!













【おすすめリンク】



◆喜伝会公式サイト

→ http://ameblo.jp/satoru-nadaguchi/



◆服部幸應のおすすめお取り寄せ&ミシュラン東京掲載店のおすすめギフト&二つ星レストランのおすすめ格安ディナー

→ http://michelinranking.blog.fc2.com/









0歳:産まれた日&場所&名前【喜伝会会長の人生折り返し自叙伝】

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今日から、残り30年、喜寿77歳まで生きることを目標に、まず、自分の人生を折り返してみたいと思う。

それでは、今日は産まれたその日に戻ってみよう。


ワタシの生年月日は、「1964年1月31日」。

母に聞いたところ、難産で雪の降る日の朝方に産まれたらしい。

全く同じ日に産まれた有名人に、元宝塚歌劇団花組トップスターで、大好きな「真矢みき」さんや、大阪府知事の「松井一郎」がいる。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-真矢みき
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-松井一郎


産まれた場所は、「長野県長野市南長野県町4-7-1」。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-出生地

googleで検索してみたが、上記住所は存在していない。

有名な「善光寺」のそばの産婦人科らしい。

「善光寺」は無宗派の単立寺院で、山号は「定額山」(じょうがくさん)と言うらしい。

物心ついて、長野駅に降りた事はあるが、「善光寺」に行った事は無い。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-善光寺



なぜ、そこで産まれたのか?

父が当時「ゼネラル(現富士通)」の社員だった頃、長野県で営業をしており、母も付いて来ていたらしい。


次は名前。ワタシの名前は「悟」。

命名したのは父らしい。

「悟り」とは、知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言うらしく、
何でも良いから、何か一つのものを極める、つまり、「悟りの境地」を得ることを望んでつけてくれたみたいだ。

兄弟に弟がいるのだが、父が次男で「啓二」、弟も次男で「裕二」と「二」が付いているのを羨ましく思ったことがある。

しかも、「悟」は漫画等で「弱い」イメージが強く、好きではなかったが、今では長男として、色々と父が考えた挙句に付けてくれた名前だとわかり、好きな名前になっている。

ただ、アメリカでは「SATORU」は発音すると「stole(肩掛け)」や「stroller(乳母車)」になり、苗字をニックネームに使っていた。


「悟」と言う名の有名人で大好きなのは、「中島悟」。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-中嶋悟

そう、日本人初のF1フルタイムドライバーで、雨のレースを得意とし、ファンからは「雨のナカジマ」と呼ばれていた人です。

昨年、月島パパ会の仲良し皇居ジョギング仲間で、我がバンドのドラマー「SEIさん」に富士スピードウェイに連れて行ってもらった時に、「中島悟」を初めて身近で拝見しました。素敵なオヤジだなと思った。

そのときに、マッチこと、「近藤真彦」にも会いました。若い女の子に囲まれて、すごかった。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-近藤真彦

今では、レーシングチーム「KONDO Racing」を運営する株式会社エムケイカンパニーの、代表取締役社長兼チーム監督なんですよね。

実は「中島悟」よりも、「近藤真彦」に会ったほうが、感動した。

何たって、スリムで髪型もかっこよくて、なぜか渋くて...。

生年月日は、1964年7月19日だから、年代的には1つ年下なんだけど、全然オヤジっぽくなくて、彼を見て、ダイエットを決意したって感じ。

ワタシも元「STORM」のボーカルである以上、マッチには負けていられない...!なんてね。

今日はこの辺で。

0~5歳:小学校入学前まで【喜伝会会長の人生折り返し自叙伝】

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0~5歳:小学校入学前まで【喜伝会会長の人生折り返し自叙伝】


0歳:生まれた日の記事から、だいぶ時間をかけてしまいました。

インフルエンザに感染してしまったり、仕事がバタバタしていたせいもありますが、実は、「母子手帳」を探すのに、時間がかかったせいでもあります。

今回の記事には、「驚愕の事実」が判明して、ワタシ自身がびっくりしています。


それでは、今日は0歳から5歳までの小学校入学前までを振り返ってみましょう!


まずは、母子手帳の記述から。

ちなみに、右の( )は娘のデータです。


【新生児】
体重:3.0kg(3.654kg)
身長:52.0cm(50.0cm)
胸囲:32.0cm(34.0cm)
頭囲:33.0cm(34.5cm)

【生後13日】
体重:3.0kg

【生後21日】
体重:3.5kg(3.705kg)

【生後33日】
体重:4.0kg(4.095kg)※ほぼ同じ!!

【生後2ヶ月13日】
体重:5.8kg
身長:58.3cm
胸囲:38.0cm
頭囲:38.0cm

【生後4ヶ月】
体重:6.95kg(7.2kg)
身長:61.5cm(61.3cm)※ほぼ同じ!!

【生後6ヶ月】
体重:9.14kg(8.87kg)
身長:69.3cm(68.4cm)

【満1歳】
体重:10.5kg(10.22kg)※ほぼ同じ!!
身長:74.0cm(75.2cm)
頭囲:47.0cm

【満2歳】
体重:11.5kg(12.7kg)
身長:86.0cm(86.2cm)※ほぼ同じ!!

【満3歳】
体重:15.0kg(15.0kg)※全く同じ!!!!
身長:95.7cm(95.6cm)※ほぼ同じ!!
胸囲:52.0cm

【満4歳、5歳】
体重:不明
身長:不明


不思議なことに、娘の満三歳時のデータは、ほぼワタシと同じです!!!

超びっくりしました!

この調子で行けば、身長はワタシ172cmは超えてもらえそうです(笑)


さて、その頃住んでいた場所は以下の通り。※歳、住んでいた場所、住んでいた期間

8ヶ月 神奈川県相模大野 3年

 3歳 神奈川県横浜市鶴見区 1年

 4歳 東京都渋谷区西原(西原幼稚園、西原小学校)4年 


相模大野と鶴見区時代の記憶は「写真」からでしかない。

要は、脳の記憶としてではなく、両親が残してくれた「写真」から思い出すことにする。


相模大野は当時父が生命保険会社に転職して、相模大野営業所に住み込みで働いていたみたい。

よって、営業所の応接室での記念写真が多い。


鶴見では弟:裕二が生まれた。


この頃は、父の実家:愛媛県松山と、母の実家:山形県新庄への旅行写真が多いです。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-松山市
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-新庄市


松山には大阪からフェリーに乗って行っていたのを思い出しました。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-四国フェリー


鳴門海峡の渦潮を見たり、うどんを食べていたのが懐かしい!
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-鳴門の渦潮

そして、父の母の妹で、
東京都大田区蒲田に住んでいた菊地の叔母さんとその息子である弘之叔父さんの写真も多い。

この菊地の叔母さんにすごくかわいがられ、御世話になる。


【幼稚園時代=4~5歳】

西原幼稚園の集合写真(生徒64名)によると、園長先生は「めときまさみち」先生。
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-西原幼稚園

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4人の先生が写っているが、担任は「福島有子」先生ではないかと思う。

名前で覚えてる同級生は1名しかいなかった...

クラスは「うみのくみ」と「やまのくみ」の2つで、「うみのくみ」だったようだ。


名簿を見ると、電話番号に(呼)のマークが付いている。

要は1家に1台無くて、呼び出しの時代だったことがわかる。

確かに、2階建ての「社宅」に住んでいて、6世代ぐらいが同居していたような気がする。

基本的には日中はドアに鍵も付いてなく、どの家にも自由に行き来していた。

台風の日は皆で、階段上で一緒に外の景色を心配そうに見ていたこともある。

炊事場やトイレが共同で、お風呂は銭湯に行っていた。


幼稚園の頃、
何が楽しかったのか、どんな遊びをしていたのかは良く覚えていない。

写真を見る限り、「ジャングルジム」、「すべり台」、
デパートの屋上で「お金を入れて動く乗りもの」が好きだったようだ。

馬に友達と二人で乗った写真もあったのが、興味深い。


今日はこの辺で。

※次回は小学校1年から4年(6~10歳)まで、振り返ってみるつもりです!

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6~11歳:小学校時代【喜伝会会長の人生折り返し自叙伝】

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6~11歳:小学校時代【喜伝会会長の人生折り返し自叙伝】



今日は6歳から11歳までの小学校時代を振り返ってみた。

まずは、通信簿と健康診断書の記述から。


【渋谷区立西原小学校1年(6歳)時:1年3組13番】
$ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-西原小学校

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◆3学期の通信簿結果 ※3評価
国語:ふつう
社会:ふつう
算数:ふつう
理科:ふつう
音楽:よくできない
図工:ふつう
体育:ふつう
生活態度:よくできる

◆出欠
出席:203日
欠席:9日

◆担当
学校長:目時政道
担任:川浦順子


【渋谷区立西原小学校2年(7歳)時:2年3組13番】

◆3学期の通信簿結果 ※3評価 
※↑:前年よりアップ、↓:前年よりダウン
国語:よくできない ↓
社会:よくできない ↓
算数:よくできない ↓
理科:ふつう
音楽:ふつう ↑
図工:よくできない ↓
体育:ふつう
生活態度:ふつう ↓

◆出欠
出席:248日 ↑
欠席:18日 ↓

◆担当
学校長:目時政道
担任:小太刀ハマ

◆健康診断書結果
身長:117.5cm
体重:21.0kg
胸囲:59cm
坐高:66.2cm
歯(処置):9本
歯(未処置):2本



【品川区立清水台小学校3年(8歳)時:3年1組34番】
※1学期は埼玉県越谷市立出羽小学校

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◆3学期の通信簿結果 ※5評価 
※↑:前年よりアップ、↓:前年よりダウン
国語:ふつう ↑
社会:進んでいる ↑
算数:ふつう ↑
理科:ふつう
音楽:ふつう
図画工作:ふつう ↑
体育:進んでいる ↑

◆特別活動:くばる係

◆出欠 ※1学期は埼玉県越谷市立出羽小学校の記録無し
出席:116日 ↓
欠席:14日 ↓

◆担当
学校長:縣昻
担任:鈴木一司

◆健康診断書結果(昭和47年4月28日)
身長:123.2cm ↑5.7cm
体重:23.8kg ↑2.8kg
胸囲:59.9cm ↑0.9cm
坐高:68.3cm ↑2.1cm
歯(処置):7本 ↓2本
歯(未処置):4本 ↑2本


【品川区立清水台小学校4年(9歳)時:4年1組11番】

◆3学期の通信簿結果 ※3評価 
※↑:前年よりアップ、↓:前年よりダウン
国語:よくできる ↑
社会:よくできる
算数:よくできる ↑
理科:よくできる ↑
音楽:よくできる ↑
図画工作:ふつう ↑
体育:よくできる

◆特別活動:掲示係、マンガクラブ

◆出欠 ※1学期は埼玉県越谷市立出羽小学校の記録無し
出席:240日 ↑
欠席:3日 ↓

◆担当
学校長:縣昻
担任:鈴木一司

◆健康診断書結果(昭和48年4月18日)
身長:129.0cm ↑
体重:25.0kg ↑
胸囲:61.5cm ↑
坐高:71.2cm ↑
視力(右):0.8
視力(左):1.0
歯(処置):7本 ↓
歯(未処置):4本 ↑


【中野区立大和小学校5年(10歳)時:5年2組26番】

大きな地図で見る

◆3学期の通信簿結果 ※3評価 
※↑:前年よりアップ、↓:前年よりダウン
国語:ふつう ↓
社会:ふつう ↓
算数:ふつう ↓
理科:ふつう ↓
音楽:ふつう ↓
図画工作:ふつう ↓
家庭:ふつう
体育:よくできる

◆出欠
出席:238日 ↓
欠席:5日 ↑

◆担当
学校長:大柳善雄
担任:松井富子

◆健康診断書結果(昭和49年4月17日)
身長:134.1cm ↑5.1cm
体重:28.3kg ↑3.3kg
胸囲:63.8cm ↑2.3cm
坐高:74.5cm ↑3.3cm
視力(右):0.8 ↓0.2
視力(左):0.8 ↓0.1
歯(処置):2本 ↓5本
歯(未処置):5本 ↑1本
歯(要抜去):2本 ↑


【中野区立大和小学校6年(11歳)時:6年2組18番】

◆3学期の通信簿結果 ※3評価 
※↑:前年よりアップ、↓:前年よりダウン
国語:ふつう
社会:ふつう
算数:よくできる ↑
理科:よくできる ↑
音楽:ふつう 
図画工作:ふつう
家庭:ふつう
体育:ふつう ↓

◆出欠
出席:238日
欠席:6日 ↑

◆担当
学校長:丸正三
担任:木下村夫

◆健康診断書結果(昭和50年6月20日)
身長:140.4cm ↑6.3cm
体重:30.5kg ↑2.3kg
胸囲:65.5cm ↑1.7cm
坐高:77.3cm ↑2.8cm
視力(右):0.5 ↓0.3
視力(左):0.7 ↓0.1
歯(処置):2本
歯(未処置):2本 ↓3本
歯(要抜去):0本 ↓2本



通信簿だけを見ると、小学3・4年が一番成績が良く、卒業する頃は「ふつう」。

あえて言えば、「体育だけはよくできる」でした。


扁桃腺が弱く、出欠結果はもっと欠席していた気がしましたが、徐々に体力が付いてきて、病気にならなくなったようです。


健康診断書結果からは、6年生の身長が現在の172cmの81%を占める140.4cm、体重は現在の76kgの40%を占める30.5kg。



さて、この頃住んでいた場所は以下の通り。

※歳、住んでいた場所、住んでいた期間

 6歳 東京都渋谷区代々木上原(西原幼稚園、西原小学校)4年 

 8歳 埼玉県越谷市(出羽小学校)3ヶ月

 8歳 東京都品川区旗の台(清水台小学校)2年

11歳 東京都中野区大和町(大和小学校)14年



【小学1-2年時の記憶】

は何と台所とトイレが共有で、お風呂は無く、銭湯に行っていたことを思い出す。

初めて観た映画は、1970年(昭和45年)8月1日公開の映画「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣」です。
【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-映画南海の大怪獣

自転車の練習は代々木公園で父に教えてもらった気がする。

書道とそろばんを習っていて、小学2年時に書道で何かの展覧会で金賞入選した覚えがある。

ウルトラマンやウルトラセブンの怪獣を集めていて、銀玉鉄砲で当てて遊んでいて、特にカプセル怪獣のウインダムが好きだった。
【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-カプセル怪獣


【小学3-4年時の記憶】

学校では、毎日、ラケット野球で遊んでいて、良く中原街道に、ボールが飛んで行った。

その中原街道で弟が交通事故に遭ったのもこの頃、当時は「今後、脳に障害が出るかもしれない」とか言われていたが、元気に育って良かった。

好きなTVは「仮面ライダー」で、ライダーカードはラッキーカードを含め、ほぼ全て揃っていたような気がする。小学3年時、清水台小学校の友達で原口君の家がお菓子屋さんで、良くいらないカードと交換してもらった。
【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-仮面ライダーカード

ザリガニ釣りと、カブトムシ、クワガタ採集しに林に行くのが好きだった。山形で初めて見た「オニヤンマ」と「ゲンゴロー」に感動していた。



【小学5-6年時の記憶】

とにかく、アメリカンフットボールのグッズが流行っていて、「マイアミドルフィンズ」のファンで、ランドセルを止めて、グルービーケースで通学していた。
【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-グルーピーケース

また、切手収集を初め、国立公園シリーズを集めていたり、プラモデルが大好きで、作ったトヨタ2000GTは、どこかで展示してもらったような気がする。
【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-国立公園シリーズ
【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-TOYOTA2000GT

好きな子ができて、意識し始めた頃なのだが、好きな子を振り向かす能力は無く、さらに嫌いな子に嫌いとも言えない情けない時代。



今日はこの辺で。

次回は「中学校時代」です。お楽しみに...

12~14歳:中学校時代【喜伝会会長の人生折り返し自叙伝】

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12~14歳:中学校時代【喜伝会会長の人生折り返し自叙伝】




今日は12歳から14歳までの中学校時代を振り返ってみます。

まずは、通信簿と健康診断書の記述から。


【中野区立第四中学校1年(12-13歳)時:1年1組19番】
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-中野区立第四中学校
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-中野区立第四中学校地図


◆学年の通信簿結果 ※5評価
国語:4
社会:5
数学:4
理科:4
音楽:2
美術:3
保健体育:3
技術家庭:4
英語:3

◆クラブ:トラベルプラン

◆出欠
出席:236日
欠席:7日

◆担当
学校長:小比賀英孝
担任:鳥塚治平

◆健康診断書結果
身長:145.1cm
体重:33.0kg
胸囲:63cm
坐高:78.1cm
歯(処置):2本
歯(未処置):3本

◆体力診断結果
反復横とび:28回
垂直とび:42cm
背筋力:78kg
握力(右):25kg
握力(左):23.5kg
上体そらし:61cm
体前屈:13cm
肺活量:2400cc
50m走:8.5秒
ハンドボール投げ:16m
懸垂:3回


【中野区立第四中学校2年(13-14歳)時:2年6組17番】

◆学年の通信簿結果 ※5評価
※↑:前年よりアップ、↓:前年よりダウン
国語:3↓
社会:3↓
数学:3↓
理科:3↓
音楽:3↑
美術:3
保健体育:3
技術家庭:4
英語:3

◆クラブ:模型

◆出欠
出席:241日↑
欠席:3日 ↓
遅刻:1日

◆担当
学校長:小比賀英孝
担任:衣山満子

◆健康診断書結果
身長:154.1cm
体重:39.3kg
胸囲:71cm
坐高:83cm
歯(処置):2本
歯(未処置):0本
歯(要抜去歯):2本

◆体力診断結果
反復横とび:33回↑
垂直とび:42cm
背筋力:90kg↑
握力(右):24kg↓
握力(左):22kg↓
上体そらし:61cm
体前屈:17cm↑
肺活量:2800cc↑
50m走:8.5秒
ハンドボール投げ:21m↑
懸垂:4回↑


【中野区立第四中学校3年(14-15歳)時:3年4組19番】

◆学年の通信簿結果 ※5評価
※↑:前年よりアップ、↓:前年よりダウン
国語:4↑
社会:3
数学:3
理科:4↑
音楽:3
美術:3
保健体育:3
技術家庭:5↑
英語:3

◆クラブ:囲碁将棋

◆出欠
出席:239日↓
欠席:1日↓
遅刻:2日↑

◆担当
学校長:中島章一
担任:伊勢崎富正、飯島忠国

◆健康診断書結果
身長:164.3cm
体重:50kg
胸囲:77cm
坐高:88.1cm
歯(処置):2本
歯(未処置):1本
歯(要抜去歯):2本

◆体力診断結果
反復横とび:27回↓
垂直とび:51.5cm↑
背筋力:128kg↑
握力(右):34kg↑
握力(左):35kg↑
上体そらし:64cm↑
体前屈:17cm
肺活量:3400cc↑
50m走:?秒
ハンドボール投げ:20m↓
懸垂:4回↑


通信簿だけを見ると、中1が一番成績が良く、中2で中だるみ、中3で少し戻した感じかな。

「技術」は好きな科目でした!

3年通じて、欠席が少なく、元気だったことがわかります。

健康診断書結果からは、3年生の身長が現在の172cmの95%を占める164.3cm、体重は現在の77kgの640%を占める50kg。

体力診断結果からは、中3で急激に肺活量が伸び、ほとんど結果が中2よりも伸びているのがわかる。


さて、この頃住んでいた場所は以下の通り。

※歳、住んでいた場所、住んでいた期間

12-15歳 東京都中野区大和町(大和小学校)14年



【学校行事】

◆1年遠足:小金井公園
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-小金井公園

◆1年林間:軽井沢
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-軽井沢

◆2年遠足:清水公園フィールドアスレティック
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-清水公園

◆2年移動教室:仙石原
ボランティアとは喜びを伝える事!喜びを伝え夢を叶える会【喜伝会】-仙石原



【中学1年時の記憶】


◆自転車大好き!

→「少年探偵団ごっこ」だったか、自転車で仲間と良く、いろんな場所に行ったことを覚えている。


◆24時間ゲーム!

→「太陽にほえろ!」が流行っていたこともあり、週末、朝から晩まで「刑事と犯人」で分かれて遊んだ、「24時間ゲーム」が大好きだった。

犯人全員を決められた時間までに見つけたら、「刑事」の勝ち! 逃げられる場所は「中野区全域」だった。

【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-太陽にほえろ!


◆時刻表大好き!

→「トラベルプランクラブ」に所属して、この頃から「旅」に目覚め、「時刻表」を眺めるのが好きだった。



【中学2年時の記憶】


◆模型(プラモデル)大好き!

→野方駅そばのTAMIYAプラモデル店が行きつけの店だった。

小学校時代は自動車だったが、中学に入り、戦艦や空母、潜水艦、戦闘機、しかも値段の安い、特に小さいプラモデルを作っていた記憶がある。

【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-TAMIYA


【中学3年時の記憶】


◆音楽に目覚める!

→産婦人科医の息子にビートルズ(イエローサブマリン)を教えられ、英語音楽に目覚める。

【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-イエローサブマリン


さらに、仲良しロック好きに日本武道館の名を世界中に知らしめたバンドとして有名なチープトリックを教えられ、ロックの扉を開ける!

ライヴ・アルバム『チープ・トリックat武道館』をカセットに録音してもらい、死ぬほど聞いたのを覚えている。

特に、"Need Your Love"、"I Want You to Want Me"、"Surrender"が大好きだった!

【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-チープトリック



◆サッカー少年!

→放課後は塾に行かない少数派の仲良しグループとサッカーに明け暮れる。

何気に、ルンメニゲ選手を覚えていて、今Wikiで調べてみるとドイツ出身の「カール=ハインツ・ルンメニゲ」だとわかった。

【喜伝会】 喜びを伝えて、「夢」を叶えよう!~人生折り返し&自叙伝ブログ~-カール=ハインツ・ルンメニゲ

アルゼンチンが優勝した「1978 FIFAワールドカップ」の西ドイツ代表で、ミスターヨーロッパと賞賛された選手だった。

この頃は、日本が「FIFAワールドカップ」に出場することがあるとは夢にも思わなかった時代。




◆親衛隊!

→仲良しグループの1人で、バスケ少年がとにかくモテまくっていて、いつも親衛隊(後輩)が観戦していた。

そのうち、足が速く、常にCF(センターフォワード)で、目立っていた自分にも、おこぼれ親衛隊(後輩)ができていた。


◆後輩にモテルが、好きな人には告白もできず!

→卒業式には、おこぼれ親衛隊のおかげで、第二ボタンどころか、袖のボタンも無くなった。若かりし、モテ時代!

しかしながら、同級生で美容院の娘である一番好きな子には彼氏がいると思って告白もできず、二番手や三番手に告白し、フラレまくっていた。

いやあ、今の自分の経験をあの頃の自分に伝えられたら、どれだけ人生は変わっていたか...


今日はこの辺で。

次回は「高校時代」です。お楽しみに...

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松任谷氏、妻ユーミンとトロフィー比べ(03/03 10:51)

歌手、松任谷由実(60)の夫で音楽プロデューサーの松任谷正隆氏(62)が「第9回渡辺晋賞」を受賞し2日、都内で行われた授賞式に出席した。渡辺プロダクションが主催する大衆文化の発展に多大な貢献をしたエンターテインメント業界のプロデューサーに贈られる賞。松任谷氏は「自分が音楽業界に家族のように迎えられた、そんな気持ちがします」と満面の笑み。「本当に今日は一世一代の日で、うちのカミさんにも見せてやりたいです。今日はツアーなので、しょうがないんですが。本当に幸せです」と喜んだ。もらったトロフィーについては「奥さんの方は今までにたくさんもらっているので、奥さんのトロフィーと自分のトロフィーが比べられます。家に帰ったら、飾りたいと思います」と笑顔で語った。前回の受賞者で脚本、演出家の三谷幸喜氏(52)と、私生活でも親交の深い女優の木村佳乃(37)がプレゼンターを務めた。




「松任谷正隆」を Wikipediaで調べてみた。
→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E9%9A%86



【松任谷 正隆(まつとうや まさたか、1951年11月19日 - )】は日本の音楽プロデューサー、作曲家、アレンジャーであり、自動車評論家、俳優としても活動。

雲母社社長、雲母音楽出版社長、マイカ・ミュージック・ラボラトリー校長、安達建設最高顧問。東京工科大学メディア学部客員教授。

東京都杉並区上高井戸生まれ、世田谷区岡本在住。東京衛生病院で出生、日の丸幼稚園、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学文学部卒業。ニックネームは「マンタ」、「遊眠亭主」[1]、「ユーミンパパ」。「U.Kon」名義での楽曲提供もある。血液型A型。

妻はシンガーソングライター・作曲家・作詞家の松任谷由実(旧姓荒井由実)。父親の功三郎は横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の元取締役、母親の和子は雲母社監査役。家系は「電力の鬼」と呼ばれた財界人である松永安左エ門につながる。


【略歴】

1971年、吉田拓郎のアルバム『人間なんて』にミュージシャンとして参加。以降吉田拓郎のアルバムやライブにおいてキーボード・バンドマスターを担当。
1973年、細野晴臣・鈴木茂・林立夫と「キャラメル・ママ」を結成。その後キャラメル・ママのメンバーを中心にティン・パン・アレイに移行。
1974年末、谷山浩子の「お早ようございますの帽子屋さん」の編曲の仕事に関わったことから本格的にアレンジャーとしての活動を始める。ただし、この仕事は最終的に萩田光雄の手によるものとなっている。
1976年11月29日、横浜山手教会にて荒井由実と結婚し、彼女は「松任谷由実」となる。
1982年、フジテレビ系「FNS歌謡祭」で最優秀編曲賞を受賞。
1986年、音楽学校「マイカ・ミュージック・ラボラトリー」を開校し、校長を務める。同校の講師に桐ヶ谷仁がいる。
1987年、松任谷由実「DIAMOND DUST」コンサートツアーより演出を手がける。
2004年、NHK紅白歌合戦ではゆずのゲスト演奏者(ピアノ)として出演。
2005年、第34回ベストドレッサー賞(学術・文化 部門)受賞。
2007年7月23日、ロシア安全保障アカデミーよりロモノーソフ勲章を受章。
2009年10月1日、東京工科大学メディア学部客員教授に就任。
2010年、「ザ・ガーデニアヒルズ・オキナワ」プロデュース。


【エピソード】

松任谷由実とは彼女のファーストアルバム「ひこうき雲」でのセッションで出会う。
結婚前のあいさつに松任谷由実が彼の母と対面したとき「ウチの息子は楽隊屋なんですが、いいのでしょうか?」と言われた。
音楽・映像・イベントなど総合プロデューサーとして活躍中の松任谷愛介は実弟、二科展絵画部会員・会友の松任谷國子・千鶴姉妹は従姉妹、エフエム東京の松任谷玉子は姪である。著書で「電話帳で松任谷のページを開くといきなり親戚」と語っている。
大学時代は親友である、前アリコジャパン社長の宮本富生の隣に座って試験を切り抜けた。3年次の時にその親友が休学した際は宮本の彼女の隣に座った。
司会を務めた「FUN」にてaikoの「カブトムシ」を絶賛。aikoをゲストに迎えた回でCDショップへ買いに行ったことを告白。人生で初めて購入した邦楽でもある。
カーマニアで、特にプジョーなどのフランス車がお気に入りである。過去にはランドローバー社のレンジローバーを所有していた他、現在では同社のディフェンダー、プジョー・1007、プジョー・207、BMW・130i、メルセデス・C63 AMG、ポルシェ・996GT3など、数台を所有している。1986年10月よりテレビ朝日系「カーグラフィックTV」のキャスターを務める他、日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、日本自動車ジャーナリスト協会会員でもある。
特技は似顔絵を書くこと。
10台ほどしか製作販売されなかった物理モデル音源仕様のシンセサイザー、ヤマハ・VP1のユーザーの1人である。
アメリカのカントリーミュージシャンが保守派の政治家を支援している点とU2のボノなどがバラク・オバマ大統領の就任式典に参加していた点を引き合いに出し、ミュージシャンは積極的に政治に関わるべきだと2010年5月25日放送の日本テレビ系報道番組『NEWS ZERO』内で発言している。

【編曲】

◆あ行

アグネス・チャン/single「やさしさ知らず」、single「アゲイン」、album「ヨーイドン」
朝比奈マリア/album「MARIA」
芦田愛菜/single「雨に願いを」
アン・ルイス/single「甘い予感」、album「チーク」
いきものがかり/single「YELL」、album「いきものばかり~メンバーズBESTセレクション~」
石川セリ/single「ひとり芝居」、album「ときどき私は…」、album「はなびら」
石川ひとみ/single「にわか雨」、single「パープル・ミステリー」、single「まちぶせ」、single「冬のかもめ」c/w
伊藤美奈子/single「グラスの中の青い海」、album「Tenderly」、album「誘魚灯」
稲垣潤一/single「バチェラー・ガール」c/w、single「オーシャン・ブルー」
今井麻起子/album「CANDY A GO GO!!」
岩崎宏美/single「恋待草」、album「緋衣草」
イルカ/single「なごり雪」、single「君は悲しみの」、single「なごり雪(2002年バージョン)」
上田浩恵/Single「MAGICAL MOONLIGHT」
内海和子/single「風はエンドレス・ストーリー」、single「もう君の名前も呼べない」、album「Lunch Time」
宇都美慶子/single「月灯りに抱かれて」
emme
遠藤久美子/single「夢ロケッツ」
及川恒平/album「僕のそばにいなさい」
大賀埜々/single「Goodbye Girl」
大友裕子/single「フォービートで愛して」
大貫妙子/single「明日から、ドラマ」
岡田有希子/single「二人だけのセレモニー」、single「Summer Beach」、single「哀しい予感」、single「Love Fair」、album「FAIRY」、album「十月の人魚」
尾崎亜美/single「旅」、single「初恋の通り雨」、single「マイ・ピュア・レディ」、single「冥想」、album「MIND DROPS」、album「Shady」

◆か行

梶芽衣子/album「去れよ、去れよ、悲しみの調べ」
かぐや姫/「かぐや姫・今日」
風/album「風ファーストアルバム」
門あさ美/single「Lonely Lonely」、single「月下美人」、album「Semi Nude」
金井夕子/album「invitation」
雅夢/album「夢つづり」、album「風花」
GARO/album「吟遊詩人」
川村ゆうこ/single「風になりたい」
来生たかお/single「Goodbye Day」、album「SPARKLE」
桑名将大/album「MILLER DR.」
CLEO/album「CLEO」
木之内みどり/single「学生通り」、single「グッドフィーリング」、album「グッド・フィーリング」
木の実ナナ/single「ダンシング・ママ」、single「夜のパントマイム」、album「ダンシング・ママ」
木村佳乃/single「恋する日曜日」、single「雨の日はふたりで」、single「Lullaby For Grandmother」、album「GIRL」
桐ヶ谷仁/single「遠い日のときめき」、single「暮れ色の媚薬」、album「WINDY」、album「JIN」
熊谷幸子/single「恋の色」、single「未来はきみのもの」、single「君と約束した場所」、single「光の鐘を鳴らせ」、single「風と雲と私」、single「嵐のカーニバル」、single「love…」、single「おはよう、ファニーガール」、single「Rhapsody in Love」、single「Bahia~バイーア~」、single「YOU AND I」、single「月がきっと見ているから」、single「Hi Hi High」、album「ART OF DREAMS」、album「虹の彼方に」、album「Poison Kiss」、album「Good Morning Funny Girl」、album「S.K.」
小泉今日子/album「今日子の清く楽しく美しく」
小坂忠
小林麻美/ single「シフォンの囁き」

◆さ行

サーカス/single「ビューティフル・シーズン」
西城秀樹/single「2Rから始めよう」
斉藤由貴/single「卒業」c/w
坂上香織/album「夏休み」、album「ARE YOU READY?」
沢田研二/single「酒場でDABADA」c/w
沢田富美子/ ペンギンズメモリー「幸福物語」挿入歌「青空on my mind」
ザ・リリーズ/single「シェルの涙」c/w
THE ROMANCING PLANTS/album「NO MORE FLOWERS」
柴田恭兵/single「なんとなく、クリスタル」c/w
下條アトム/single「俺と親父」
白石まるみ/single「オリオン座のむこう」、album「風のスクリーン」
春風亭小朝/single「11月の風」
障子久美/album「Rhythm of Silence」、album「Motion & Moment」
杉真理/single「Hold on」、album「SONG WRITER」
須藤薫/single「LOVE AGAIN」、single「THE BLACK HOLE」、single「恋のビーチ・ドライバー」、single「あなただけI LOVE YOU」、single「セカンド・ラブ」、single「噂のふたり」、single「裸足のままで」、album「Chef's Special」、album「Paradise Tour」、album「Amazing Toys」
瀬戸龍介/single「ビューティフル・モーニング」

◆た行

高田みづえ/album「ふり向けば秋」
田口清/single「ルーレット」
竹仲絵里/album「Garden」
田原俊彦/single「銀河の神話」
寺岡呼人/album 「RHAPSODY」、album「Waiting for the sun.」

◆な行

中島みゆき/album「あわせ鏡、友情、夜曲」、album「B.G.M.」
中村中/album「あしたは晴れますように」
中村雅俊/single「日時計」 、album「Shy Guy Masatoshi」
新田恵利/album「E-AREA」、single「若草の招待状」c/w

◆は行

パイシス/single「恋人と来ないで」
ハイ・ファイ・セット/single「スカイ・レストラン」、single「冷たい雨」、album「ファッショナブル・ラバー」
ペーターズ・スペース/album「Romantic Plastic」
萩尾みどり/single「大連慕情」
BUZZ/single「風の盆」
はたあすみ
林紀恵/album「トロピカル・ジャンプ」
原田知世/single「時をかける少女」、single「ダンデライオン~遅咲きのたんぽぽ」
光GENJI/album「Hi! 光GENJI」、single「剣の舞」c/w
平原綾香/single「晩夏(ひとりの季節)」
廣重綾/single「光る道」、single「You are you」
広谷順子/single「古都めぐり」、single「恋模様」c/w、single「天使のひとりごと」、album「その愛に…」
藤真利子/album「ガラスの植物園」
ブレッド&バター/single「あの頃のまま」、single「センチメンタル・フレンド」、album「或る夜の出来事」
ポケットビスケッツ/album「THANKS」
堀川まゆみ/single「ダディー」、single「レモン感覚」、album「楡通りの少女」

◆ま行

松田聖子/single「赤いスイートピー」、single「小麦色のマーメイド」、single「渚のバルコニー」、single「秘密の花園」、single「瞳はダイアモンド」、single「Rock'n Rouge」、single「ピンクのモーツァルト」
松原みき/album「WHO ARE YOU?」、album「Myself」
松本典子/single「さよならと言われて」
真璃子/single「ほうせんか」c/w
三浦友和/single「ほほえみの扉」、album「素描」
三木聖子/single「まちぶせ」
水野きみこ/single「神よ何てお礼を言えばいいのか分からない」c/w
森尾由美/single「ごめんなさい・愛してる」、album「You & Me」、album「Euromantique」

◆や行以降

八神純子/album「夢見る頃を過ぎても」
薬師丸ひろ子/single「Woman "Wの悲劇"より」、album「花図鑑」
泰葉/album「White Key」
山下久美子/single「バスルームから愛をこめて」、single「ワンダフルcha-cha」、single「恋のミッドナイト・D.J.」、album「バスルームから愛をこめて」、album「DANCIN' IN THE KITCHEN」
山瀬まみ/single「メロンのためいき」
山本コウタローとウィークエンド/single「はぐれ雲」、single「めぐる季節に」、album「ウィークエンド・セカンド 虹を下さい」
山本達彦/single「ある日この夏~Two Way Summer」、single「アゲイン」、album「Memorial Rain」
ゆず/single「桜木町」、single「栄光の架橋」、album『Going Home』
吉田拓郎/single「となりの町のお嬢さん」、single「明日に向って走れ」、single「舞姫」、single「サマーピープル」、album『明日に向って走れ』、album『ローリング30』
麗美/single「愛にDESPERATE」、single「青春のリグレット」、single「残暑」、single「Time Travelers」、album「REIMY」、album「R」、album「PANSY」
レモン・トリー/single「まぎれなく恋」

◆他多数

編曲の特徴としては、従来歌謡曲で用いられなかったような楽器を積極的に使うという点がある。例えば、ストリングと管楽器を用いた最初期の編曲家である。特に、フルートとハープの使用に特徴がある。また、コーラスも積極的に盛り込んでいる。その結果、松任谷由実(荒井由実)の作品にコーラスで参加することで注目されたアーティストも多い。全体としての作品のまとまりに優れるというよりも、部分的なフレーズに記憶に残るような著しい特色があることが多い。

また、流行に敏感で、外国曲の特徴のある編曲を応用することもしばしばあり、一部の作品については、オリジナリティを疑問視する声もないではない。

なお、松任谷由実の作品の選別(レコード・CDに収録するかどうか)については、昔から、きわめて厳しいようであり、かなりの作品が「お蔵入り」となっていると言う。特に、シャンソン風とラテン風の作品については、辛いとする話もある。

松任谷正隆の編曲の影響を大きく受けている編曲家としては、新川博と武部聡志を挙げることができる。



【外部リンク】

松任谷正隆 - Facebook → https://www.facebook.com/masataka.matsutoya

松任谷正隆 (mm1119) - Twitter → https://twitter.com/mm1119

MASATAKA MATSUTOYA -BLOG- honeyee.com Web Magazine → http://blog.honeyee.com/mmatsutoya/






【喜伝会会長のコメント】

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◆国際ニュース(AFPBB News)から、
選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!

◆喜伝会会長が知らなかったこと
 ・・・松任谷正隆が「第9回渡辺晋賞」を受賞したこと。
 ・・・松任谷正隆が雲母社社長、雲母音楽出版社長、マイカ・ミュージック・ラボラトリー校長、安達建設最高顧問、東京工科大学メディア学部客員教授であること。
 ・・・松任谷正隆が吉田拓郎のアルバム『人間なんて』にミュージシャンとして参加し、以降吉田拓郎のアルバムやライブにおいてキーボード・バンドマスターを担当していたこと。
 ・・・松任谷正隆は松任谷由実とは彼女のファーストアルバム「ひこうき雲」でのセッションで出会ったこと。
 ・・・松任谷正隆の特技は似顔絵を書くこと。こと。
 ・・・「渡辺晋賞」とは財団法人渡辺音楽文化フォーラムプロデューサー賞渡辺晋賞のことで、財団法人渡辺音楽文化フォーラムが顕彰している、エンターテイメント業界に優れた業績を挙げたプロデューサーに対して与えられる賞であること。


【渡辺晋賞一覧】

第一回

渡辺晋賞

亀山千広

渡辺晋賞特別賞

岩谷時子

第二回

渡辺晋賞

鈴木敏夫

渡辺晋賞特別賞

宮川泰

渡辺晋賞特別賞

青島幸男

第三回

渡辺晋賞

本多一夫

第四回

渡辺晋賞

松浦勝人

第五回

渡辺晋賞

秋元康

第六回

渡辺晋賞

三枝成彰

第七回

渡辺晋賞

大里洋吉

第八回

渡辺晋賞

    三谷幸喜



◆喜伝会会長のコメント
 ・・・こんなに編曲されていた人とは知らなかった。特に、稲垣潤一/single「バチェラー・ガール」、来生たかお/single「Goodbye Day」、イルカ/single「なごり雪」は大好き!
 ・・・ユーミンを支えて、会社を設立して、社長も兼務していることも知らなかった。陰で妻を支えながら、趣味の車を楽しんでいる素敵なダンディーの一人だと思う!







【おすすめリンク】

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★現カネボウ顧問の長男の藤田晋が元秘書澤野井宏美と再婚していた!【喜伝会おすすめニュース】

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★現カネボウ顧問の長男の藤田晋が元秘書澤野井宏美と再婚していた!【喜伝会おすすめニュース】





サイバーエージェント社長・藤田晋さん 愛社精神を持ち続けた姿

2014.3.5 09:30 (1/2ページ)



 会員制サイト「Ameba(アメーバ)」の運営などを手掛けるインターネット関連会社「サイバーエージェント」(東京都渋谷区)。社長の藤田晋さん(40)はサラリーマンだった父、隆さん(69)とは違う道を歩みたいと考え、16年前に起業。「21世紀を代表する会社を創る」という大きな目標を掲げ、事業拡大に突き進んだ。



 福井県鯖江市にあった大手メーカー「カネボウ」の工場に技術者として勤務していた隆さん。毎日夜遅くまで働く猛烈な仕事人間だったが、休みの日には子供たちをスキーや釣りに連れて行くなど家族サービスも忘れなかった。



 「父は子供たちのことばかり考えていた」。小学4年生のとき、福井県の将棋大会で優勝し、「県で1位だから今日からお前はケンイチくんだ」と、大喜びしていた姿を懐かしそうに思い出す。



 高度成長期の多くのサラリーマンと同様、隆さんも会社に対して強い忠誠心を持っていた。飲み物や食品、化粧品、毛糸など家の中にある日用品はカネボウの関連商品ばかり。競合他社の商品は決して買わず、家族にも買わせなかった。



 こんなエピソードもある。激しい雷雨が北陸地方を襲った夜、隆さんは「工場が動かなくなると困るから、ちょっと見てくる」と、出掛ける準備を始めた。家族は心配したが、「行かないといけないんだ」と言い残すと、レインコートを羽織って嵐の中を工場へ向かった。「父は、自分の父が事業に失敗したため、貧しい生活を経験している。名門企業で安定した生活を送りたいという思いが強かったのでは」



 ただ、藤田さんは「安定した先の見える人生」に反発した。同僚と同じ社宅に住み、同じ会社に行き、子供は同じ学校に通う。「安定の代わりに何かを失っている。みんなと同じなのは嫌だ。自分は決してサラリーマンにはなりたくない」と、心に誓っていた。









「藤田晋」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E9%9A%86







【藤田 晋(ふじた すすむ[1]、1973年5月16日[2] - )】は、日本の実業家。株式会社サイバーエージェント代表取締役社長。ほぼ同時期の起業で成功を収めたライブドアの堀江貴文や楽天の三木谷浩史と並ぶいわゆる『ヒルズ族』の筆頭格として語られてもきた。[3]





【来歴】



福井県鯖江市に生まれ、高校卒業までを鯖江で過ごした[4]。福井県立武生高等学校を卒業したのち、上京、青山学院大学経営学部へ進学した[5]。大学在学中には大学付近のベンチャー広告代理店で営業のアルバイトを2年半ほど経験。『アルバイトの合間に授業に出る』ような大学生活であったという。[6]



大学卒業後、人材派遣会社インテリジェンスへの勤務を経て、1998年に起業[7]。退社したインテリジェンス社の出資を受けての株式会社サイバーエージェントの設立で、同社の代表取締役に就任した。2000年、26歳のとき東証マザーズ上場を果たす(光通信社長の重田康光(当時31歳)の記録を破る史上最年少の上場企業社長)。



2006年には東京ヴェルディ1969を運営する日本テレビフットボールクラブの副社長に就任。2008年に株主撤退で退任したが、以後もスポンサーは継続。





【私生活】



いわく、もともと金銭への執着はあまり無いほうで、自社株公開後にそれなりの個人資産を得てからますます金銭欲が薄れたという。[8] 初めてテレビの独占取材を受けた際には『別にクルーザーが欲しいわけでもない、あと貯金とか嫌いですしね』と自らの物欲の無さを語り、『大学にいたとき、会社入ったときですね、思ったのは。カッコよく生きたい、と思った。』と人生観を語っている。



父親は大手企業(カネボウ)勤務のサラリーマンであった。その父のようになるのが嫌であったのだという。 若年の頃にはミュージシャンを真剣に目指した時期もあったものの、高校3年頃、自身の音楽的才能に疑問を抱くに至り断念。実業の道を志し始めたのもちょうど同時期のことであったという。[9]



◆音楽



ヒップホップを好み、Rhymesterのファンであるという。ヒップホップ自体の世間での認知度がまだ低かった時代からの愛好家であり、当時のインディーズレーベルを買い漁ったり服装も「B-BOY」風のファッションにするなどとても凝っていた。Rhymesterの宇多丸が出演している第三会議室にゲストで登場。SUPER BUTTER DOGの竹内朋康は中学生時代の親友でMummy-Dと竹内がマボロシを結成した際にRhymesterのラジオにてゲストとして呼ばれ、10年振りに再会した。ヒップホッププロデューサー兼ファッションデザイナーのNIGOとプライベートで仲がよく、しばしば2人で釣りに行くなどしているという。



◆競馬



かねてより競馬に入れ込んでおり、2008年には有馬記念で294.9倍の大穴馬券を的中させたことが話題となっている。[10] 関係馬はダイワスカーレットとアドマイヤモナークで、獲得額は1474万5千円であった。[11]



◆その他



釣りが趣味で、小型船舶操縦士免許を所有。



東京ヤクルトスワローズのファン。2010年12月に日刊スポーツが「サイバーエージェントがヤクルトを買収」と報じた[12]際には「初耳です(笑)」と驚いた様子をTwitterで明らかにした[13]。



◆男女関係



2004年1月に女優の奥菜恵と結婚するも、翌2005年の7月に離婚。2009年に自身の元秘書の女性と再婚している。[14]

政界との関係



2010年の第22回参議院議員通常選挙ではトレンダーズ社長経沢香保子(リクルート出身)と共に、みんなの党の松田公太(タリーズコーヒージャパン創業者)を支援した。それ以前には民主党衆議院議員の加藤公一(リクルート出身)に150万円の献金を行っている(05年11月15日朝日新聞)。インテリジェンス会長の宇野康秀、社長の鎌田和彦共々リクルートコスモス出身である。



◆財界活動



2012年6月から一般社団法人新経済連盟理事。





【主な著書】



「ジャパニーズ・ドリーム」(2000年3月、ダイヤモンド社)2005年4月にアメーバブックスから再版。

「渋谷ではたらく社長の告白」(2005年3月、アメーバブックス)2007年8月に幻冬舎から文庫化。

「藤田晋 渋谷ではたらく社長の成功ノート」(2005年10月、PHP研究所)

「起業ってこうなんだ!どっとこむ」米倉誠一郎と共著(2006年1月、NTT出版)

「藤田晋の仕事学 自己成長を促す77の新セオリー」(2009年4月、日経BP社)

「サイバーエージェント流 成長するしかけ」曽山哲人著、藤田晋監修(2010年2月、日本実業出版社)

「憂鬱でなければ、仕事じゃない」見城徹と共著(2011年6月、講談社)

「藤田晋の成長論」(2011年11月、日経BP社)

「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」見城徹と共著(2012年4月、講談社)

「起業家」 (2013年4月、幻冬舎)





【出典】



^ 『藤田晋・サイバーエージェントCEO――社会の価値観の揺り戻しに戸惑っている《私のアラサー論》(2) | インタビュー』 2010年1月7日 東洋経済オンライン

^ 『ワールドカップ2006 藤田晋・ワールドカップと私』(2/2) 公開時期不詳 ライブドアスポーツ

^ 『Roppongi Hills back on top』 2010年3月25日 ジャパンタイムズ (英語)

^ 『メガネザンマイ | 第20回メガネベストドレッサー賞 ― スペシャルインタビュー:藤田晋』 公開時期不詳 鯖江メガネファクトリー

^ 『人格劣る稼ぎ頭は、出世させるべきか 「手放せない人の条件」有名社長がアドバイス【藤田晋 サイバーエージェント社長兼CEO】』(1/3) 2012年1月23日 プレジデント

^ 『青山学院スタイル・インタビュー | VOL3:伝統と進化・青山学院スタイル with YOL』 公開時期不詳 読売新聞

^ 『日本新聞協会 よんどく!|IT社長インタビュー|#03』 2009年6月 日本新聞協会

^ 『お金より大切なものを探すには―藤田 晋』(1/2) 2009年7月14日 プレジデント

^ 『Susumu Fujita | 100 Next-Era CEOs in Asia 2010』 2010年 ジャパンタイムズ (英語)

^ 『サイバーエージェントの藤田晋社長、有馬記念で1,500万円当てる。』 2008年12月29日 ライブドアニュース,ナリナリドットコム

^ 『サイバー藤田晋社長、有馬の“モナ馬券”大的中』 2008年12月29日 日テレNEWS24

^ ヤクルト身売りサイバーエージェント有力 - 日刊スポーツ・2010年12月4日

^ サイバー社長 ツイッターで「初耳 ヤクルトファンだから嬉しいけど」 - スポニチアネックス・2010年12月4日

^ 『藤田晋社長、ブログで再婚報告「子供が早くほしい」』 2009年8月9日 日テレNEWS24





【外部リンク】



渋谷ではたらく社長のアメブロ(公式ブログ) → http://ameblo.jp/shibuya/



FUJITA'S BAR改め 渋谷ではたらく社長の会食 → http://ameblo.jp/fujitasbar/



藤田晋 (susumu_fujita) - Twitter → https://twitter.com/susumu_fujita













【喜伝会会長のコメント】



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◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・藤田晋の父親が現カネボウ顧問であること。

 ・・・藤田晋が元秘書澤野井宏美と再婚していたこと。

 ・・・藤田晋が大学卒業後、人材派遣会社インテリジェンスへの勤務を経て、出資を受けての株式会社サイバーエージェントを設立したこと。

 ・・・藤田晋が2008年には有馬記念で294.9倍の大穴馬券を的中させ、獲得額は1474万5千円であったこと。



◆喜伝会会長のコメント

 ・・・ヒルズ族の一人ではあるが、父親がカネボウとは知らなかった。若手経営者として頑張って欲しい応援したい一人です!

 ・・・調べてみたら、奥菜恵もサラリーマンとできちゃった再婚していた!これもびっくりです!









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映画「アナと雪の女王」 真実の愛 美しいミュージカルで 

2014.3.14 09:02 (2/2ページ)

「アナと雪の女王」から、触れたものを凍らせる力を持った姉のエルサ(左)と、妹のアナ





 特筆すべきは、光が複雑に反射する氷の城のシーンの美しさだ。バック監督は「カナダのケベック州に氷でできたホテルがあり、そこにビデオカメラを持ち込んでリサーチして、光の反射を研究した。ただ、注意しないと氷がプラスチックやガラスのように見えてしまう。だから、ひびやちょっとした汚れを入れたりして本物らしくした」と語った。



 主題歌「Let It Go~ありのままで~」など、音楽のクオリティーも高い。「楽曲は何曲か用意してあって、それをパズルのようにはめていった。単に美しい、楽しいだけでなく、人物の感情に沿って選曲していった」とバック監督。



 アンデルセンの「雪の女王」をモチーフにしている。いつの時代でも愛される普遍性を追求しながらも、今を生きる人々に訴えるストーリーを意識したという。リー監督は「かつてない壮大なスケールの作品で、真実の愛というテーマをこれまでにない表現で描いています。日本のみなさんの心にもきっと届くと信じています」とアピールしている。



 日本語吹替版では、松たか子がエルサを、神田沙也加がアナの声を担当。主題歌はMay J.が歌っている。







「アナと雪の女王」を Wikipediaで調べてみた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%9B%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B







【『アナと雪の女王』(アナとゆきのじょおう、原題:Frozen)】は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオズ製作による2013年のアメリカ合衆国の3Dコンピュータアニメーション・ミュージカル・ファンタジー映画である。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『雪の女王』が原作とされるが、ストーリーは完全オリジナルといえるほど異なっている。ウォルトディズニーアニメーションスタジオ長編作品としては53作目である。声の出演はクリスティン・ベル、イディナ・メンゼル、ジョナサン・グロフらである。





【あらすじ】



アレンデール王国の王女エルサ(8歳)は、触れた物を凍らせたり雪を降らせたりする呪われた魔法の力を持って生まれた子であった。しかし、両親から愛され、3つ年下の妹アナといつも仲良く幸せに暮らしていた。



ある夜のこと、エルサの魔法で雪を降らせたり雪だるまを作ったり部屋中を凍らせて遊んでいた姉妹であったが、はしゃぎすぎたアナが危なくなり、エルサはそれを救おうとするも自分の魔法を制御できず、アナを傷付けてしまう。駆け付けた王と妃は、目を覚まさないアナを助けるため、魔法に詳しいトロールたちの所に行って救いを乞う。幸いエルサの魔法が傷つけたのはアナのハート(こころ=心臓)ではなく頭であったため、トロールの力でも回復させられるものだった。しかし、魔法の傷を消すために、二人で遊んで楽しかった思い出だけ残して魔法に関する記憶をアナの頭から消すことになる。



日増しに魔法の力が強くなっていくエルサは、魔法の力を世に知られぬよう城中の窓や戸や門を閉めて部屋に閉じこもり、魔法を制御するために誰とも触れ合わず自分を抑えて生きることを強いられる。一方、意識が戻り元気になったアナは、エルサの魔法のことを忘れてしまったために、なぜ突然に大好きな姉が自分を避けるようになったのか理由もわからないまま閉ざされた城の中で寂しく成長する。



その10年後、二人は両親を事故で亡くす。お互いだけが唯一の肉親となってしまったのに、顔を見る事も話す事もできないまま更に3年の月日が流れる。



美しく成長したエルサは女王として即位することになった。13年間ずっと閉ざしつづけた城の門を、特別に1日だけ開いて戴冠式が行われる。しかし、エルサの魔法はもはや自分の意思で抑えることが出来ないほど強大なものになっていた。魔法のことを人々に知られないように、女王として完璧に振る舞うように、自分を抑え感情を殺してなんとか1日を乗り切る覚悟をするエルサ。一方アナは、13年ぶりに外界と接触できる特別な1日に、新たな出会いを期待して胸を膨らませていた。そして、戴冠式に招かれていた他国の王子ハンスと恋に落ち、出会ったその日のうちに結婚の約束までしてしまう。姉に婚約を告げるアナだったが、あまりにも早すぎる展開にエルサは二人の結婚を反対する。アナはエルサと口喧嘩になり、気持ちのたかぶったエルサは思わず人々の前で魔法を暴発させてしまった。自分の力を知られ、怪物呼ばわりされたエルサは王国から逃げだす。そして夏だった王国は、混乱したエルサが知らずに暴走させてしまった魔法によって、永遠の冬に閉ざされた。北の山にたどり着いたエルサはそこに魔法で氷の城を建て、自分を抑えつけるのをやめてありのまま独りで生きていく決意をする。



アナはハンスに国を任せ、エルサを連れ戻すため一人で旅に出る。道中で出会った山男のクリストフ、彼の相棒でトナカイのスヴェン、そして魔法の雪だるまオラフと共に、エルサを探して北の山へ向かう。氷の城にたどり着いたアナは、エルサに王国に戻るよう説得をこころみる。しかしエルサは自分の魔法で人々が傷つくことを恐れ、王国への帰還を拒否する。初めは暖かい気持ちで再会した二人だが、お互いを思いやった末の口論から、徐々に姉の感情がたかぶって魔法を制御できなくなり、誤ってアナのハートを凍らせてしまう。少しずつ体力を失い凍えていくアナ。クリストフはアナを救うため、彼の知り合いであるトロールたちのもとへ向かう。しかし、魔法を受けたのが頭ではなくハートであったため、トロールの力では回復させられない。



一方ハンスは、アナを乗せて旅立ったはずの馬だけが王国に戻ったことで異変を感じ、兵士たちを連れてアナとエルサを捜しに出かける。氷の城を見つけた彼らだったが、一部の兵士たちが容赦なくエルサに攻撃を仕掛けてしまう。エルサは魔法の力で彼らを止めようとするが、最後には兵士たちに捕らえられ、かつての自分の王国の牢屋に閉じ込められてしまった。ハンスは、冬を止めるようエルサを説得するが、すでに制御できない力を持った魔法を止める術は、彼女自身にも知る由がなかった。その頃、トロールたちの話から、アナの凍ったハートを溶かす手がかりを知ったクリストフは、衰弱してゆくアナを抱えてスヴェンを走らせ、王国へと急ぐ。





【登場キャラクター】



アナ

主人公の王女。ストロベリーブロンドの髪だが、5歳のときに頭に受けた魔法の影響で一房だけが白い(本人はそのことを忘れているため生まれつきだと思っている)。左投げ。明るい性格で、いざという時は男勝りな一面をのぞかせる。仲の良かった姉と理由もわからず引き離され、閉塞的な城の中でひとり寂しく育ったため、素敵な出会いを夢見ていた。王子ハンスと出会い、彼の紳士的な一面に惹かれて出会ったその日に彼のプロポーズを受けいれる。王国を逃亡した姉のエルサを想って彼女を捜す旅に出る。

エルサ

アナの姉で、もうひとりの主人公。プラチナブロンドの髪。生まれながらに雪や氷を作り出す魔法の力を持っており、それは成長するにつれて制御することができなくなるほど強大になっていく。子供の頃に魔法でアナを誤って傷つけてしまい、それ以来、誰とも触れ合わず自室に閉じこもる。女王となる戴冠式の日に、人々の前で魔法を見せてしまい逃亡せざるを得なくる。その際、期せずして王国を極寒の冬に変えてしまった。

ハンス

エルサの戴冠式に招待されたサウザンアイル王国の王子。13人兄弟の末っ子で、王も女王も上の兄たちに目をかけているので、ハンスは孤独感を持っていた。戴冠式でアナと出会い、アナの孤独感を理解して彼女にプロポーズする。アナが旅に出ている間、アレンデール王国のことを任される。

クリストフ

勇敢でワイルドな山男の青年。氷を売って生計を立てており、山の中でトナカイのスヴェンと共に暮らしている。山小屋でアナと出会い、彼が会話の中で突然の吹雪が吹いてきた方角を示したお蔭で、アナは姉のエルサがどこに潜んでいるか気付いた。その後エルサを捜す旅に同行する事になる。幼い頃からスヴェンと採氷をしていたが、それが契機であるものを目撃していた。

スヴェン

山に住むトナカイ。クリストフの相棒。にんじんが好物。

オラフ

夏に憧れる陽気な雪だるま。エルサの魔法で作られた。主に3つの雪玉から成る身体で、それぞれを意のままに入れ替える事ができる。鼻はにんじん。夏に憧れるが故に、永遠の冬に終止符をうつのが目的のアナ達を、嬉々として氷の城へ案内する。

アレンデール国王

エルサとアナの父で皆からから愛されていた王。魔法は使えない。アナが不慮の事故に見舞われた際、城の図書館からトロール達の住む丘を見つけ出し、妻と娘達を連れて馬を走らせた。映画の中で、その外見はウォルト・ディズニーの若い頃に酷似しており、ファンの間ではウォルトがモデルだと言われる一方、ノルウェーのホウコン7世にも似ているとも言われている。

ウェーゼルトン公爵

アレンデール王国の隣国で、貿易相手であるヴァイゼルトン国からエルサの戴冠式に招待された公爵。常に2人のボディガードを引き連れている。ドイツ読みが正しい発音だが、いつもウィーセルタウンと発音されてしまう事を厭う。鶏や猿の真似を得意とするなど、一見愛嬌があるが、戴冠式に招待され、参上するにはある目的があった。

マシュマロ

エルサの魔法で作られた氷の怪物で、氷の城の門番。怒らせると牙と爪と棘が生えて襲いかかる。マシュマロという名は劇中ではオラフにしか言及されていないので、創造主であるエルサがマシュマロという名をつけたかは実は不明。外見が似ている事から、映画「ゴーストバスターズ」のマシュマロから名前がつけられたという説もある。同じ雪だるまでも、オラフとは性格も外見も大きく異なり、オラフは子供の頃のエルサの心の内を表し、これに対比されるように、マシュマロは現在の孤独を好むエルサの心の内を表すための設定とも言われている。

オークン

サウナ付き山小屋の主人。夏の真っただ中から突然極寒の冬になったので、店内の夏物を半額セールにしている。従って冬物の品揃えが実に悪い。何かにつけ自分が発明した日焼け止めオイルをアピールする。口癖は「Woo Hoo!Big Summer Blowout」。

トロールたち

石のような姿をした不思議な生き物。クリストフの友達であり、家族のような存在。長であるパビーはかつてエルサの魔法で傷付いたアナを治した。トロールの一人であるブルダは陽気で、幼い頃のクリストフが最初に出会ったトロール。人間でいう男性にあたるトロール達は緑か青のクリスタル製ネックレス、女性にあたるトロール達はピンクか赤、長のパビーのみ黄色のネックレスをかけている。

シトロン

ハンスの愛馬で種類はフィヨルド馬。ハンスとアナが最初に出会った際にハンスと一緒にいた。アナから彼女自身がアレンデール王国の王女と聞いて、ハンスと一緒におじぎする礼儀を持ち合わせている。実はシトロンという名前は劇中で出てこないのだが、脚本家のジェニファー・リーがファンからweb上で質問されて、ノルウエー語でレモンを指すシトロンであると認めている。後にハンスと一緒にエルサを探す旅に出かける。





【声の出演】



役名 原語版 日本語吹替版[5]

アナ クリスティン・ベル[6] 神田沙也加

エルサ イディナ・メンゼル[6][7] 松たか子

クリストフ・ブジョーグマン ジョナサン・グロフ[8][9] 原慎一郎

オラフ ジョシュ・ギャッド(英語版)[6][10][11] ピエール瀧

ハンス サンティノ・フォンタナ(英語版)[8] 津田英佑

ウェーゼルトン公爵 アラン・テュディック[11] 多田野曜平

パビー キーラン・ハインズ 安崎求

幼いアナ リビー・スタベンラッチ(台詞)

ケイティー・ロペス(歌) 稲葉菜月

子供時代のアナ アガサ・リー・モン 諸星すみれ

幼いエルサ エヴァ・ベラ 佐々木りお

10代のエルサ スペンサー・レイシー・ガーナス 小林柚葉

アレンデール国王 モーリス・ラマルシェ 根本泰彦

オーケン クリス・ウィリアムズ 北川勝博

バルダ マイア・ウィルソン 杉村理加

カイ スティーブン・アンダーソン 飯島肇

ゲルダ エディ・マッククラーグ 増岡裕子





【製作】



ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオズは長年にわたって『雪の女王』の翻案に取り組んでいた。2002年後半に一度廃案となったが、その後も再び企画が立ち上がった[12]。しかしながら2010年3月時点でプロジェクトは再度棚上げされた[13]。同年6月にディズニーはプロジェクトが「ホールド」状態となっていることを発表した[14]。2011年12月、『塔の上のラプンツェル』の成功を受けてディズニーは『Frozen』と題された新作を2013年11月27日に公開することを発表した[15]。翌月、本作が手書きアニメーションではなく、3Dコンピュータアニメーションとなることが明かされた[12]。2012年3月5日、女優のクリスティン・ベルが主人公の声を務め、クリス・バック(英語版)が監督し、ジョン・ラセターとピーター・デル・ヴェッチョがプロデュースすることが発表された[2]。6月、雪の女王の声をイディナ・メンゼルが務めることが明かされた[7]。11月30日、『シュガー・ラッシュ』の脚本家の1人であるジェニファー・リーがバックと共同監督を務めることが発表された[16]。12月19日、ジョナサン・グロフがクリストフの声を務めることが発表された[9]。





【音楽】



『アナと雪の女王』のオリジナル歌曲はロバート・ロペスとクリスティン・アンダーソン=ロペス(英語版)が作詞・作曲する[7]。2013年8月のD23(英語版)のデスティネーション・Dのイベントで楽曲「レット・イット・ゴー」が披露される。この曲は挿入歌としてエルサを演じるイディナ・メンゼルが歌い、キャラクターが王国を離れて氷の宮殿を建てる際に使われる[6]。主題歌にはデミ・ロヴァートが歌う「レット・イット・ゴー」が使用される。2013年2月、映画音楽の作曲のためクリストフ・ベックが雇われたことが発表された[3]。クリスティン・ベルもまたメンゼルとデュエットすることが明かされている[8]。





【公開】



2013年6月18日にティーザー予告編が公開され[17]、同月21日より公開のピクサーの『モンスターズ・ユニバーシティ』に付けられた[18]。





【評価】



第86回アカデミー賞において『風立ちぬ』で本作とアカデミー長編アニメ映画賞を争ったスタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫は、宮崎駿が1957年のロシア版アニメ映画『雪の女王』を見て強い関心を持っていたエピソードを明かしつつ、本作について、原作を大幅に変えながらもその精神である自己犠牲のテーマを変えておらず、なおかつ原作どおりに2人のヒロインを「男の子」の手を借りずに描き、「感心したのと同時に、今の時代を表している作品になっている」と述べた[19]。





【受賞】



第71回ゴールデングローブ賞[20]

アニメ映画賞

主題歌賞ノミネート(「レット・イット・ゴー」)

第41回アニー賞[21]

作品賞

監督賞(クリス・バック、ジェニファー・リー)

声優賞(ジョシュ・ギャッド)

美術賞(マイケル・ディジャイモ、リサ・キーン、デヴィッド・ウオマスリー)

音楽賞(クリステン・アンダーソン=ロペス、ロバート・ロペス、クリストフ・ベック)

第86回アカデミー賞

長編アニメ映画賞

歌曲賞 (レット・イット・ゴー)





【参考文献】



^ Chitwood, Adam (2012年11月29日). “Wreck-It Ralph Scribe Jennifer Lee to Co-Direct Disney's Frozen”. Collider. 2012年11月29日閲覧。 “Lee has already contributed to the screenplay for Frozen, so it appears she's been involved with the project for a while.”

^ a b Todd Gilchrist (2012年3月5日). “Kristen Bell Set to Star in Stage Adaptation 'Some Girls', Animated Feature 'Frozen' (Exclusive)”. The Hollywood Reporter 2012年3月5日閲覧。

^ a b “Christophe Beck to Score Disney’s ‘Frozen’”. Film Music Reporter (2013年2月19日). 2013年7月4日閲覧。

^ a b c “Frozen (2013)”. Box Office Mojo. 2014年3月7日閲覧。

^ アナと雪の女王、【吹替え専門サイト】ふきカエル大作戦!!、2014年3月13日閲覧。

^ a b c d Nachman, Brett (2012年8月16日). “Disney In Depth: The Future Of Disney Animation (Frozen, Paperman, & Wreck-It Ralph) - A Recap Of D23's Destination D Event”. Geeks of Doom 2012年8月17日閲覧。

^ a b c Breznican, Anthony (2012年6月11日). “Disney's 'Frozen': Kristen Bell and Idina Menzel to voice animated tale”. Entertainment Weekly 2013年6月23日閲覧。

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^ Sarto, Dan (2013年2月21日). “Oscar® Tour SoCal Day 2 Continues at Disney Feature Animation”. Animation World Network 2013年2月28日閲覧。

^ a b Snetiker, Marc (2013年6月18日). “Santino Fontana and Josh Gad Join Disney’s Frozen, Starring Jonathan Groff & Idina Menzel”. Broadway.com 2013年6月18日閲覧。

^ a b Fischer, Russ (2012年1月11日). “Disney’s "Frozen", Formerly "The Snow Queen", Will Be CG Rather Than Hand-Drawn”. Slash Film 2012年1月12日閲覧。

^ Dawn C. Chmielewski and Claudia Eller (2010年3月9日). “Disney restyles 'Rapunzel' to appeal to boys”. Los Angeles Times 2010年4月6日閲覧。

^ “The Lion King Goes 3D”. ComingSoon. (2010年6月22日) 2012年1月12日閲覧。

^ Sciretta, Peter (2011年12月22日). “Walt Disney Animation Gives ‘The Snow Queen’ New Life, Retitled ‘Frozen’ – But Will It Be Hand Drawn?”. SlashFilm 2011年12月22日閲覧。

^ Fleming, Mike (2012年11月29日). “Jennifer Lee to co-direct Disney Animated Film ‘Frozen’”. Deadline 2012年11月29日閲覧。

^ Frozen (2013年6月13日). “Your summer is about to get a bit cooler.”. Facebook 2013年6月14日閲覧。

^ Hunter, Honor (2013年5月23日). “Frozen In Time.”. Blue Sky Disney 2013年6月14日閲覧。

^ 細谷佳史 (2014年3月3日). “ジブリ鈴木敏夫、長編アニメ映画賞受賞の『アナと雪の女王』に感心【第86回アカデミー賞】”. シネマトゥデイ. 2014年3月5日閲覧。

^ SLAVE AND HUSTLE TOP LIST OF GLOBE NOMINEES、OFFICIAL WEBSITE OF THE GOLDEN GLOBE AWARDS、2014年2月3日閲覧。

^ 福田麗、アニー賞が発表!『アナと雪の女王』が最多5冠!『風立ちぬ』は脚本賞を受賞(2014年2月2日)、シネマトゥデイ、2014年2月3日閲覧。





【外部リンク】



◆公式ウェブサイト(英語)

→ http://movies.disney.com/frozen/



◆公式ウェブサイト(日本語)

→ http://www.disney.co.jp/movies/anayuki/













【喜伝会会長のコメント】



◆【喜伝会】とは、喜びを伝えることでお互いが「幸せ」になることを実践するボランティアの会です。



◆国際ニュース(AFPBB News)から、

選りすぐりの「喜ばれるニュース」を伝えるのが、【喜伝会会長】のボランティア精神です!



◆喜伝会会長が知らなかったこと

 ・・・『アナと雪の女王』の日本語吹替版では、松たか子がエルサを、神田沙也加がアナの声を担当し、主題歌はMay J.が歌っていること。

 ・・・『アナと雪の女王』は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『雪の女王』が原作とされるが、ストーリーは完全オリジナルといえるほど異なっていること。











◆喜伝会会長のコメント

 ・・・松たか子の歌声は世界レベルで最高!でも、声優として努力してきた神田沙也加の頑張りをもっと応援してあげたい!













【おすすめリンク】



◆喜伝会公式サイト

→ http://ameblo.jp/satoru-nadaguchi/



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